第2話 まんじゅう怖い
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一つ後悔をするとすれば、その日飲もうとした缶ビールを切らしていて、いつもなら諦めるところたまたま深夜のコンビニまで出てしまったことだろうか。
このあたりは比較的治安はいいほうだが、大学が近いこともあって居酒屋は学生でにぎわっている。こんな時間まであんなバカ騒ぎしてよくまあ体力が持つものだ。
コンビニからの帰り道、出来る限り人通りの少ない道を選んで歩いていた。5月も中旬になり夜でも生暖かい空気が流れている。静かな夜道にはただ気だるくスニーカーを引きずる音と、レジ袋の中でぶつかる缶の乾いた音だけが聞こえていた。
前に明るく見えるのは裏道に面した唯一の居酒屋だ。にぎやかな声が通りまで聞こえてくる。いつもなら早足で通り過ぎるところだが、なぜだかその日はのんびりと通ってしまったんだ。
勢いよく戸が開けられた時、ちょうど俺はその目の前を通り過ぎるところだった。派手な爆笑とともにどっと人が流れ出てくる。まずいと思ったその瞬間に何も考えずに早く帰ってしまえばよかったのに、つい聞き慣れた声がしたから振り返ってしまった。
「最寄同じ奴いんだろ〜持って帰ってやれよぉ」
「うはは、こいつ重いから佳祐くらいじゃないと担げねぇよ」
沈酔した男を抱え大声でしゃべりながら店から出てきたのは、まぎれもない人見たちだった。酔いに顔を赤く染めた人見をなぜかまじまじと見てしまった。自分のそんな行動に気がついたのは、眠そうな目で人見が俺の姿を認識した時だ。2秒にも満たない間、人見がじっと俺を見つめる。数メートルの間を挟み人見に見下ろされた俺の足は、一歩も動くことができなかった。
納得がいかない、というような顔をしていた人見の表情がぱぁっと明るくなる。
「浅香だ!!」
肩を貸していた男を他に預け、飛ぶように近づいてくると俺の首に腕を回した。酒臭い息に汗ばんだ体、振り払いたくなる熱に動悸がした。
「あは、じゃあ俺お先〜」
そう言って他の連中に手を振ると迷うことなく俺の腕を掴み歩き出したのだった。角を一つ曲がったところで前を行く人見が振り返る。だらしなく緩んだ笑顔でぐへへと笑った。
「助かったぁ。あいつら絶対誰かんちで宅飲みする気だし、俺んち絶対狙われるからさぁ」
顔は赤いし、足元はおぼつかない。口調は一緒にいた連中の中ではまだしっかりしているほうに見えたが十分間延びした危ういものだった。
「知らねーよ。あついんだっつの、その手を放せ。抜け出せたんなら一人で帰れよ」
「つれないな〜どうせ帰るとこいっしょじゃん」
「いちいち声がでけーんだ、くっつくな!」
室外機の音くらいしか聞こえない、暗い静かな通りに人見の声が響く。きゃっきゃと子供のような笑い声がこだました。
「くっそ。この酔っぱらい」
「ぇえ?酔ってないですよ?」
「酔っぱらいは皆そう言うんです」
「うははっ」
隣の線路を電車が走り抜けた。巻き上げられた髪が顔にひっつく。隣で人見が大爆笑していた。
どうしてたかが授業のプリントをコピーさせてやっただけの男にこんなにも懐かれてしまったのだろう。無邪気な人見にはどこにも警戒する場所が見つからない。そして満更でもない自分がいる。
――人見は大丈夫なんじゃないのか。
そんなどこにも確証の持てないことを期待している。だって今が、楽しいから。くだらないことを怖がって人生を棒に振るより、誰かとアホな話をしているほうがよっぽど意味があるような気がした。
だけど、もし裏切られたら…。
「………」
「浅香は本当、笑わないね」
「…俺も笑うよ」
「あれ、なんか今日は素直だ。でもおれ、見たことないよ?」
「うん…俺ももう何年も、見てないかもな」
となりの人見にも聞こえたか分からないくらいの声で呟いた。自分の笑った顔がどんなものだったか、もう思い出せない。
狭い路地に入った。人見は鼻歌を歌っている。小さな学生アパートのエントランスに入り、よろける人見を俺の真下の部屋のドアの前に突き飛ばした。ポケットを探りドアノブをガチャガチャと言わせている間に俺は階段を上っていった。
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