第2話 まんじゅう怖い
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〇
「享幸くん」
久しぶりに名前を呼ばれた。俺のことを名前で呼ぶ人間なんて誰もいない。驚いて振り返ると、訝しいほどの笑顔を浮かべた男がいた。
「俺のこと、忘れちゃった?」
「…覚えてるよ」
そう言えば男はいっそう笑みを深めた。そこに計り知れない恐怖を感じて思わず身震いする。ふとじんじんと脇腹が痛みだした。あまりの痛さに立っていられなくなりしゃがみこむと、肩に手を置かれる。ゾッとするほど冷たい体温が気持ち悪かった。
「はっ…う、」
身悶えながら腹を見ると、グレーの部屋着が真っ赤に染まっている。
「享幸くん、別に殺すつもりはなかったんだ。ただ死ぬまで苦しめばいいと思って」
仮面をかぶったように笑い続ける男はいつかの俺を手にかけた人物に違いなかった。
享幸くん、享幸くん、といくつもの声が掛かる。男だったり女だったり。甘ったるかったり無邪気だったり、楽しそうだったり情欲的だったり。そこに一つも怒りの感情が見えないのがかえって気持ち悪かった。
こだます声に頭が殴られたように痛くなる。どこからともなく伸びてきた何本もの手が体をまさぐり傷口をえぐっていく。肉をつままれ、ひねくり回され、たくし上げられたスウェットからはグロテスクな何がが引っかきだされようとしていた。
それを直視できるわけもなく、酸素を求めて必死に喘ぎ、まとわりつく白い手を振り払おうと手を振り回しもがいた。声にならない叫びが喉から漏れる。
いくつもの重なった声はやがて一つの周波に集約し、聞き取れる一つの単語となったのだった。その声は男とも、女とも言えない。
「享幸くん、好きだよ」
嘘だ。違う、違う、違う。
誰も俺を愛してなどいなかった。どこに行っても、何度繰り返しても、未来は変わらなかった。
なんで、どうして!俺が何をしたって言うんだよ!?
「享幸くん」
信じたかった。ほんの少しでも心を支えてくれた彼女たちを、こんな俺を友達と言ってくれた彼らを、信じたかった。どこかで分かっていても、俺は信じていたのに――
さっきまで体を撫でまわしていた手が離れたと思った途端、目の前に現れたのはいくつもの凶器を持った手たちだった。鋭い刃物や冷たい鈍器、全ての先端が俺に向き、それを持った何十本という手が一斉に振りかぶった。
「――――っ」
あまりの恐怖に涙が頬を濡らす。狂った顔の筋肉が滑稽な収縮を繰り返した。
わなわなと震える口からは、ついに聞き取れないほどのつんざく悲鳴が弾け出た。
「浅香!!」
「はっはっ…はっ…は…」
視界がにじむ。薄く目を開くと、そこには不気味な白い手も、俺に向けられたおびただしい数の凶器も、どこにもない。
ただひどく焦燥した様子の人見が、俺の肩をゆすり顔を覗き込んでいる。かすんだ視界にそれを収め、浅い息を一度大きく吐き出した。
カーテンの隙間から見える空は日の出前の明るい藍色だ。昨日の記憶が途切れているのを考えると、どうやら他人を家に上げておいて寝落ちしたらしい。人見を押しのけ立ち上がると、足元がふらついた。有無を言わさず冷蔵庫から冷えた水を取り出すと、ベッドの上に腰を下ろして喉を鳴らして飲む。冷たい水が喉を伝っていくのが気持ちよかった。
「浅香…」
心配そうな顔で人見が俺を窺っている。その目が気に喰わなくて睨みつけようと思ったが、なぜかうまくいかなかった。
「お前、バイトは?」
「あ、いや、まだ時間は余裕あるから」
「あっそう………俺うなされてた?」
人見はハッと顔を上げると迷いながらも頷いた。
「ふーん。ま、気分いいもんじゃないよな。他人がうなされてるなんか見んのこえーよ」
悪夢はなかなかの頻度で見るが、うなされている自覚なんてなかったから正直驚きだ。ひどい悪夢なんて慣れっこだし、なぜか夢の中で味わう恐怖は現実で味わう恐怖よりもずっと不気味でずっと恐ろしい。それに今まで悪夢で目覚めたことなどなかった。
こんなことなら泊めなければ良かった、と心の底からそう思う。やばい奴だとか、変な奴だとか思われたら面倒じゃんか。
何か言いたげにチラチラと俺を見る人見が覚悟を決めたように口を切る。
「浅香…さ、その…何か、悩んでることとか…あるの?」
何様だよ、クソが。
「あ?当たり前だろ。お前に悩みはないのか?どれだけ日常が充実してる人でも、どれだけうまくやっていける人でも、みんな下らないちっさいことに神経すり減らして精神病んで悩むだろ。明るい奴ですらそれだぜ?俺みたいな暗い人間がストレスフリーだったらそれおかしいだろ」
「や、まぁ…確かに」
息つく暇も与えず捲し立てると、安心したように人見が頬を緩めた。そんなぎこちない顔を見て、見苦しい姿を見せたなと反省する。それと同時に何があってももう二度と俺の家に人を泊めないことを誓った。
「……」
あまりに元気のない人見が心配になる自分がいて、そんな自分を慌てて追い払った。俺はいったいどんなうなされ様だったんだろう。そんなに不気味だったのだろうか。
「何、うなされてたからそんな心配してくれてんの?俺自分がうなされてんの今日初めて知ったけど」
「う〜ん…でも、まあ…前から気になってたよ」
「…前から?」
「俺、浅香のことずっと怖かったんだ」
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