第3話 紛れ、惑う
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空き時間、日誌を書きに控室へ戻れば、人見だけがぽつんと座っている。扉の開いた音に顔を上げると、俺を見て手を振った。
「浅香ぁ、どんな?」
「どんなも何も、まだ授業はやらせてもらってないし何とも言えないだろ」
「まぁ…そっか」
歯切れの悪い人見にいつものような底抜けの明るさはなかった。ぼんやりと何かを考えているような、どこか上の空だ。
「なんでわざわざそんな離れたところに座るんだよ」
「なんでこんなに席があるのにわざわざ人見の近くに座んなきゃいけないんだよ暑苦しいだろ。暑苦しい上にお前がでかすぎて圧迫感感じるんだよ」
「それ指導案?」
俺の言葉などまったくの無視で、わざわざ向かいの席に移動してきた人見が聞いてくる。そんな人見も赤字だらけの指導案を広げていた。
「うわぁ〜全然の赤の量が違う〜」
机に突っ伏してそう言うところを見ると、始まってそうそううまくいかないことでもあったのだろうか。
確かに添削の数は俺のほうが圧倒的に少なかったが、あたりまえだ。そもそもこの俺が人見と同じレベルであるなんて俺のプライドが許さない。
実習においても俺は出来る限り人との接触は避けたいのだ。担当の先生にも最低限しか世話になりたくない。そのためには大抵のことはすでに出来上がった状態でいないければならないし、俺には十分そのためのスペックがあった。これこそ地獄のループの賜物だが。
「なんだよ、浅香。やる気ないように見えてちゃんとやることやってんじゃん」
「やる気がなくても真面目なんだよ俺は」
「なんか最近浅香の毒っ気が抜けてきたよなぁ」
「誰相手にだよ」
「俺だよ。いや俺しかいないだろ」
人見しかいない。
疑うまでもなくそう言った人見の言葉を飲み込んだ。
「…さぁな」
「え?」
自信満々に自惚れている人見の言葉と、その否定のしようがない事実に溜息を吐いた。
「浅香、俺以外に話す人いたの!?」
急に声を大きくして、身を乗り出して聞いてくる人見の目が大きく見開かれている。その勢いに思わず腰を引いた。
「いちゃ悪いかよ」
「友達できたの!?」
「いや、いねぇよ」
「どっちなんだよ!!」
「うるさい黙れ」
なぜか興奮している人見から目を逸らす。無意識に顔を近づけてくるこの距離に顔を見れなかった。
もともと人と目を合わすのは苦手だったが、ここのところそれが悪化したように思う。なぜか人見と目が合うと無償に目を逸らしたくなってしまう。人見の場合は、目が合っても絶対に自分からは逸らさないからかもしれない。
「誰だよ浅香が話せるようになった奴」
唇を尖らせてそういう人見に呆れた視線を向ける。何度も言うが、俺に友達はいない。人見とも好きで話しているわけではない。
「だからいないし、そもそもお前が勝手にしゃべってるだけだ」
「なんだよ付き合えよ〜ダル絡みくらい付き合えよ〜」
赤ばかりの指導案をほったらかしにする人見を相手にせず、俺は直された箇所を見直した。その手元をいい加減黙った人見が机に突っ伏した状態でじっと眺めていた。
「浅香はなんで教職とったの?見るからにそういうの嫌いそうじゃん」
「安定した収入」
「即答かよ。でも案外向いてるのかもな、以外と肝据わってるし」
おおかたチェックをし、パソコンを起動し始めたが人見はまだうなっていた。
もうすでに喝でも入れられたのか。そんなに黒木とやらは厳しいのか?俺のことは完全無視だったのに。いや、それがありがたかったけど。
珍しく溜息を吐いた人見の浮かない顔を思わず見つめた。
黒木のあの沈んだ何も映していないような目を思い出す。いったいどんな過酷な生活をしてきたらあんな目になるのだろう。
親近感とは違うが、同情はする。
まだ若いってのに、かわいそうに。
でもそんな奴も生きては死んでいく。誰もが俺を置いて先へ行く。いずれは人見も、俺のことを忘れて…。
頭を振った。くだらないことを考えている暇も、誰かに入れ込む隙もあってはいけない。
信じられる人なんていないのだから。
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