第3話 紛れ、惑う


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 実習も4日目を迎えると、実際に教壇に立ち授業をするようになる。教壇から降りた途端重くなった肩には苦笑いをしたが、遠藤先生からの評価は上々だ。

 午後一の授業が終わり、日誌の書き込みがひと段落着いた頃、授業での配布プリントのことで職員室へ遠藤先生を訪ねたが、席を外しているようで見当たらない。そのまま準備室へ行ってみると、国語科と共用で仕切られた準備室には人の気配はなかった。

「…失礼しました」

 一応のこと言葉に出して教室を後にしようとしたとき、国語科と数学科をしきる棚の影から何かが動くのが見えた。変に誰かと顔を合わせるより先に早く出ようと後ろのドアノブに手をかけたが、吸い込まれそうな真っ暗な目から視線を離せなくなる。

「何か用でもありましたか」
「……いえ、大丈夫です」
「遠藤先生は今授業中です」

 のっそりと出てきた黒木は、自分のデスクにつきながら気だるそうにそう言った。なぜかその横顔から目を離せず、動かない俺に黒木がもう一度視線を向けた。

 真っ正面から見た黒木の顔は、目こそ落ちくぼんだように暗かったが、それなりに整っている。肌は白く、切れ長の目元もここまで暗くなければ涼し気といえただろう。涙ホクロがやけに印象的だった。

「浅香先生、ずいぶん先生方からの評価が高いみたいですね。堂々と授業をされる、実習生とは思えないと遠藤先生もおっしゃっていました」
「それは…恐縮です」

 何とも言えない雰囲気のせいで出る機会を失った俺と黒木との間には、ねっとりと絡みつくような空気が流れていた

 にこりともしない黒木は品定めでもするかのように俺を眺めてくる。おなじくにこりともしない俺は、その黒木の視線を受け止めた。

 俺からしてみれば三十路の黒木などペーペーに違いなかったが、今まで会った誰よりも自分に近いような気がする。同族意識など持ちたくもないが、頭に引っかかる顔と、その暗い目はなんとなしに気になった。

「…どこかでお会いしたことがありましたか?」

 五月の乾いた空気のはずが、埃臭い準備室ではやけに重たく落ちていく。俺の言葉を聞いた黒木は机に肘をつき視線を逸らすと、背筋のゾッとするような笑みを微かに浮かべた。

 ゆっくりと俺のほうに向き直ると、自嘲を含んだ調子で口を開く。口元は気味悪く上がっているのに、その目は決して笑っていない。

「覚えていませんか?…享幸くん」

 頭を殴られたような気分だった。

 俺はコイツにまったくもって心あたりがない。いや、頭の片隅には黒木の顔がちらつくのだ。でもそれが誰なのかを特定することがどうしてもできない。

 悪い予感が当たったように、胸騒ぎがする。

「………」
「…まあ無理もないですね」

 押し黙る俺にふっと息を吐き、黒木は視線を手元へ戻した。

 もう話すことはないとでも言うように、何事もなかったように机に向かい業務を再開した黒木はもう俺の存在など気にもとめなかった。

 止まっていた時計の針がようやく動き始めたように、停滞していた空気が流れだす。廊下へ出るとやけに空気が新鮮に感じられた。

 後ろ手に扉を閉めた時の俺の心臓は驚くほど速くなっていて、同時にどっと冷や汗が流れ出た。

 得たいの知れない恐ろしさがじわじわと広がっていく。黒木と俺は過去に会っている。しかしそれがいつのことなのか、分からない。

 ただ俺には、黒木も俺と同じ地獄に落ち、そこから抜け出せない人間なのではないかという思いが浮かんでは消えた。


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