第3話 紛れ、惑う


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 黒木と二人きりだったあの準備室の異様な空気から早く現実に戻りたくて、気が付けば走るようにして控室へ向かっていた。

 思わず強く引いたドアの音で我に返り、そっとドアを閉める。幸い控室には実習生は見当たらなかった。
 
「浅香?」
「ひっ」

 横から聞こえてきた声に飛びあがりそうになったのを寸前のところでこらえ横を見れば、窓からグラウンドを見下ろしていたらしい人見が首を傾げてこちらを見ていた。カーテンで隠れて見えなかったらしい。
 
「なんか顔色悪くないか?」
「は?お前のほうがひどい顔してんぞ。寝不足と疲労とストレスでこけてんな」
「よく見てるぅ〜」

 弱々しく笑ってみせる人見の目の下には誤魔化しの効かないほどのクマができている。無理もない。毎日数時間の睡眠しかしていないのだ。なぜか毎晩俺の部屋まで来て指導案を書いては机に突っ伏して、朝目が覚める。自分の部屋で、自分のベッドで寝たほうが疲れも取れるだろうに、なぜか毎日来た。

 気にせず寝るときは寝る俺に気遣いが無用だと知ったらしい人見は、調子に乗って俺を揺すり起こして助言を求めることもある。そこは遠慮を知っていてほしいところだった。
 
「授業は?」
「3時間目だった」
「あ、そう」

 テキトーな椅子に座れば向かいに人見が腰かける。ぼんやりとうつろな人見が何を考えてるのかは分からない。いつもと違って覇気がないくらいしか俺には見て分かることはなかった。
 
「やっぱり難しいな。全然思うようにいかなかった」
「授業?」
「そ、時間にはうまく収められないし、言わなきゃいけないこと言い忘れるし、自分本位で話したいことだけ話して生徒の理解に配慮できない」
「初っ端からそんな余裕あるほうがおかしいだろ。誰にでもできたら教師の存在理由なんてねぇよ。バイトでも雇っとけって話。しょせん俺たちまだ学生なんだよ」

 準備室での出来事にまだ心臓が驚いているらしい俺は、やけに早口でそう言った。人見が元気のない理由が俺にはどうにもちっぽけなものに見えてしまう。ましてや人見だ。そんなことがへこむ理由にはならない。こんなことで図太いこいつがくじけるのはおかしい。
 
「黒木先生にもだいぶ喝入れられたしなぁ」
「怒られた?」
「割とね。怖かった」

 黒木のまるで表情のない顔を思い出す。あの調子で怒られたらそりゃトラウマものだ。無駄に顔が整っているだけ余計に怖い。
 
「俺最初は黒木先生と浅香ってなんか似てるなって思ってたんだ。同じ目してる」
「…」

 確かに俺も思ったかもしれない。でも勘弁してくれ、と今なら思う。あんな気味の悪い奴と一緒にされるなんてどうかしてる。そりゃ黒木のほうが見た目はいい、整っている。目だけは異様に暗いくせして涙ホクロが変に色気を出していて。
 
「でも浅香はなんだかんだで防御が薄いというか、いろいろ毒吐きながらも最終的には受け入れてくれるし」
「鉄壁のガードだろなめんな」

 思わず口を挟めば人見はくすりと笑った。
 
「黒木先生は本当に分からないんだよね。…機械的というか」

 ぼそりと言って人見は黙った。ぼーっと机を眺めていたが、はっと気づいたように俺を見た。
 
「今のはナシ。忘れて」
「……そんな気にする?」

 危うく指導教員のことを悪く言いそうになり良心が止めた、そんな感じだった。言いたきゃ言えばいいのにと思う。指導員の悪口なんて放課後の控室で飛び交っている。
 
「黒木先生、俺は好きじゃないし」
「ちょ、まだ実習だって一週間近く残ってるんだから、思っても口にするなって」
「怖いんだよ、俺あの人」
「え?浅香がそんな風に思うの?てか浅香って好き嫌いあんの?」
「え、ブロッコリー嫌い」

 食いつきがやたらよかったから思わず身を引いて、どうでもいいことで気を紛らわそうとするが、目を丸くした人見がぐっと顔を近づけてくる。
 
「ブロッコリー嫌いなのか…いや、そういう意味じゃなくて…え、なんで?」
「え、あのもさもさ感が気持ち悪くて」
「だからブロッコリーの話じゃねぇよ」
「うそ、うそ。やっぱ今のなし」

 変に詮索されるなんて聞いてない。人見から顔を背けて日誌の続きに集中しようと努めた。何故だか人見はさっきまでの鬱々とした表情から楽しそうにそわそわしていた。人の陰口を井戸端会議のように話すなんて女子か。冗談でも本音を吐くべきじゃない。
 
「でも話してみたら?以外と気が合うかもしれないよ。たぶんあの人すごい頭がいいんだよ。浅香なら対等に話せる」
「お前がポンコツすぎんだろ」
「俺は勉強できる系のアホなんだよ」
「自分で言うな」

 睨みつければ顔をくしゃくしゃにして人見は笑った。眩しさと恥ずかしさで見てられない。

 黒木の暗い目が脳裏に浮かぶび、覚えていませんか、と声が蘇った。


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