第3話 紛れ、惑う


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「っあ〜無理!」

 机に突っ伏した人見がエナジードリンク片手に叫ぶ。明日の授業の資料は作り終わったらしいが、いまだ指導案の作成に追われている。俺は今日提出したものでOKをもらえていた。
 
「何時っ!?」
「まだ2時半だけど」
「あと3時間しかないじゃん!!」

 白目でもむきそうな人見にタオルを投げつける。毎日俺の部屋までパソコンを持って上がり込む人見は毎日のように空が白んでくるまでパソコンに向き合っている。まったく迷惑だと思わないのか、俺はこいつのせいで睡眠時間が削られてしかたがない。
 
「はぁ〜あと5日…踏ん張んないと…あ、これ浅香の匂いがする。ふわふわ〜」

 珍しく柔軟剤を入れて洗ったタオルに顔を埋めて、なにやら鳥肌の立つことを言い始めた人見はシャワー借りると声を掛けるが否や、自分の家のようにバスルームへ行った。
 
「せめて机の上くらい綺麗にしてけよな…」

 ノート、教科書、参考書、プリント、書類のコピー、全てを広げた状態にしてあった。そんな机の上を見て、なんてものが日常になってしまったのだろう、とどうしようもないことに溜息を吐く。

 この1週間で人見はやたらと俺に近づいてくるようになった。自意識過剰なんてとうに通り越して、懐かれていることは事実だろう。

 もうどうさばいていけばいいのか分からない。

 人見がバカな話をしているときは、なんだか俺もこの時間にいるような気がした。一緒に未来を見れるような気がした。このまま何事もなく時間が進んで行くような、そんな錯覚にとらわれた。

 これがいいのか悪いのか、分からない。

 紛れもなく恐れているのはまた15年を繰り返すことなのに、それを何にも考えず今を生きているような気分になる。

 しかしそれも、たまに準備室ではちあう黒木によって消えていくことが多かった。
 
「浅香先生は将来どんな先生になるんでしょうかね」

 誰もいない埃臭い準備室で黒木は言った。無償に腹が立ったのは、あの光のない目であざけるように口を歪めて言ったからだ。

 お前に未来はない、と言われているようで、机に置かれた花瓶で叩きつけたくなった。

 自分にはどんな未来も待っていない、なんてわかりきっていたはずなのに、今更そんなことを言われて腹が立つ。簡単に調子が良くなれば、簡単に落とされる。人間って笑えるくらい単純なんだな、なんて思ったが、それはそもそも俺が馬鹿なだけの話かもしれない。

 きっと浮かれているのだ。

 人見に引っ張り上げてもらって見せられた世界に。

 人見は眩しい。いつだって俺にはない未来を見ていた。どんな教師になりたい、こういうことがあって教師を目指した。キラキラした目で語ってくれる。雑に聞き流していたら、何度も何度も同じ話をされた。そのしつこさにいつからか、俺の頭にも無条件に浮かんでしまうようになったのだ。数年後、数十年後に教壇に立つ人見の姿や、もしそこに自分がいたらという妄想。

 いったいいつまでこの熱が続くのだろう。そろそろもとに戻らないと、冷静にならないと、自分が自分でなくなっていくようで恐ろしかった。
 
「はぁ〜……あと少し…」

 上気した顔で戻って来た人見の濡れた髪から水が垂れる。
 
「人見って誰にでもそんな図々しいの?」
「図々しいとは失礼な!」
「いや、だから誰にでもそんな警戒心ないのって話」
「え?何?湯上りの俺にムラっときちゃった?おほ」

 パソコンから目を話楽しそうに目を瞬いた人見がニヤニヤとこちらを窺う。気色悪い物言いに顔をしかめると、ますます人見が笑った。
 
「あはは、顔、顔ひでぇ」
「気色わる…」
「いや、浅香はなんかこう、いい感じの存在感なんだよ」
「まあいないも同然だもんな」
「ちげぇよ。なんか…なんだろ…あー、安心する?」
「俺はお前のこと殴り飛ばしたい」
「ひゃひゃ」

 深夜テンションに気がおかしくなり始めたらしい人見がゲラゲラ笑いながら手を動かす。しばらく部屋には人見が思い出し笑いでくつくつ笑う声と、タイピングの音だけが聞こえていた。

 会話もなくなりうつらうつらしてきたときにまた、人見がうなり声を上げ始める。
 
「もうなんっなんだよこれ!」
「…あ?」
「どこが駄目なのかわかんね」

 発狂寸前の人見の目の下にはくっきりとクマが浮いていた。なんだか不憫にも思えてくる。

「落ち着け。お前はなんだかんだちゃんと頭がいいから、だから教える立場になった時、生徒がなんで理解できないのか、どうしてそこに疑問を感じるのかが分からないんだ。馬鹿で目ざとい高校生の立場で考えろよ。聞いたことない世界を聞いたことない単語で話されても知らねえだろ。自分で自分につっこみをいれろ。分からなかったらお前が馬鹿だからだよ。教材研究からやり直せ」
「ああもう!浅香明日、団子でもおごれよ!」

 俺超がんばってるからな!ご褒美くらいちょうだい!ときゃんきゃん吠えながら人見はすさまじい勢いでキーボードをたたいていく。

 時刻は3時半を過ぎている。そろそろ人見も仮眠できそうな段階だ。

 無難な教育実習が人見の怒涛の勢いに巻き込まれ、散々なことになっている。満更でもなく思っている自分もそこには確かに存在した。


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