第3話 紛れ、惑う
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午前の光が差し込んでいる。11時を過ぎたこの時間、グラウンドからは体育の授業の声が聞こえ、校舎から少し離れた旧倉庫にはどこか別世界のような空気が流れていた。埃臭い木製の古い倉庫に、隙間から漏れ出た光の筋が浮かぶ。珍しく黒木は楽しそうに生き生きとしていた。
一時間目に授業を終え、二時間目の時間を使って遠藤先生に指導を受けているところをずっと隣のデスクで黒木は聞いていた。俺が準備室を出る時を見計らい、こうして連れてこられた次第だ。
「やっと話ができる」
「話なんてどこでもできる」
いまや黒木に対する警戒はかなり高いところにまで上っていた。こうして整った顔を不気味に歪ませ笑う黒木が怖かった。今すぐこの場から逃げ出したいと思う反面、こいつが何者なのか知りたいと切実に思う自分もいる。
五月のぬるい風が吹き抜ける。鼻をくすぐる埃に小さくくしゃみをした。もう一度黒木を窺うと、顔の反面が日の光に照らされ真っ黒な髪の毛と同じく漆黒の瞳がちらりと光った。
「享幸くん」
じっと俺だけを見つめて黒木が口を開いた。2mほど、お互いが手を伸ばしても互いに触れることのない距離感だった。一歩後ずさると、革靴が木の床を擦り音を立てる。それはシンとした倉庫に子気味よく響いた。
黒木がスゥっと口角を上げる。常に暗い目元が日光に照らされ、人間らしさをはじめて感じさせた。
「覚えていませんか?」
「覚えていません。あなたは一体俺のなんなんですか」
はっきりとそう言うと、分かりやすく黒木は落胆した。そんな風に表情を見せる黒木も珍しい。でも俺にはその全てが不気味に見えていた。しょうがないとでも言うように黒木が笑う。
「10年以上も前の話ですからね…僕はね、昔25歳で死のうと思っていたんです」
25歳で死ぬ…。あまりにも俺に関係のある単語だ。
そっと視線を床に置かれたバレーボールに向けながら黒木は続ける。伏し目になった瞳は今はもう見えない。無意識に手を握りしめていたらしく、手のひらにたまった汗が気持ち悪く感じた。心臓が音を立てる。血液の流れる音が聞こえてきそうだった。
「もうずっと、そう思っていたんです。でもある時あなたに出会った」
俺は知らない。そんなの知らない。黒木なんて男と話したこともない。
「忘れもしません。僕が中学3年生の頃の冬だ。なんとなく、小学生だったあなたに打ち明けたんです。生きているのが辛い、自分は25歳でこの世界に見切りをつけるつもりだ、と」
黒木がゆっくりと視線を上にあげた。目を瞬くと長いまつげの影が下まぶたで揺れた。俺は必死に頭の中で黒木の記憶をさらっていた。ここにもいない、あそこにもいない、この男は一体俺の人生のどこで関わった?一体小学生の俺は、いつのこと、何歳だ?
「僕はあなたに救われたんです。あなたに生かされたんです。ずっと探していた」
もしかして、と頭をよぎる。俺が黒木と出会ったのは、10歳以前。俺がどれだけあがいても変えられない時間。そこで俺は黒木と会っているのか?だとしたら俺はもう黒木の探していた俺じゃない。もうとっくに別人になり果てている。
「実習生としてうちの学校に来た時には本当に驚いた。浅香享幸の名前を見つけた時はあまりの衝撃に遠藤先生に心配されたくらいだ」
「俺の名前はどうして知ってたんだ?」
「それも覚えてないんですね。あなたが教えてくれたんですよ」
「…うそだ」
必死に思い出そうとしたところで、これはもう思い出せないほど遠い昔の話。ゆうに100年以上も前の話。黒木はくすりと笑った。白い肌が日の光に艶めく。
「無理もないです。あなたは小学生だった」
しかしその時黒木も中学生だ。俺は黒木の中でそんなにも大きな存在だったのだろうか。焦燥感が全身を駆け抜けていく。俺の知らない事実を黒木は知っていた。
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