第3話 紛れ、惑う
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「それにしてもいいものではありませんね。なんとかこの年まで生きてきてはみたものの…あなたはどうですか?」
「…なにがです」
「私はやっぱり今でも死にたい。それでも生きてきたのは享幸くんがいたからだ」
「昔の俺が何を言ったか知りませんけど、そうやって死を軽視するのはよくないと思いますよ。生より死のほうが絶対的で、簡単に犯せるものであっていいはずがない」
「そうです。あなたはいつだって命を大事になんて言わなかった」
黒木が薄く頬を染め、うっとりと酔ったような視線を俺にむけた。ぞくりと鳥肌が立つ。
「死こそが正義、と言ったのですよ、あなたは。だから死ぬな、と。自殺をしようとするものに死ぬ資格はない」
頭が痛い。ここにいたくなかった。黒木は俺にとってとんでもない地雷のような気がした。黒木の生きる理由が俺だと?こんなの殺されるに決まっている。たいていこういう奴が人を手にかけるんだ。いままでのことを思い出してみろ。
「本当に感謝しているんです。いつかお礼が言いたかった、享幸くん」
「…はい?」
「だからそんな目をしないでほしいんです」
「……」
自分だって死んだような目をしているくせして、自分のことは棚に上げて黒木は切なそうな顔をした。いつになく表情豊かによくしゃべる黒木がやっぱり俺は怖かった。
「あなたは今辛いですか?」
「……」
辛い?辛いよ、辛い。俺に未来は存在しないのだ。あるのはひたすらに続く終わりの見えない人生だ。何十回と繰り返せば嫌でも悟ってしまう。人は死ぬために生きているのではないか、と。死のない人生なんて地獄に等しい。どんなに苦しんでも苦しんでも、その苦痛が止むことなく苦しみ続ける。
きっと人は知らぬうちに悟っているのだ。口では死にたくない、自殺など禁忌だと言いながら、ちょっと考えればわかるだろう。どんな宗教だって、死後を安楽に過ごすために現世で徳を積み生きている。つまり生は苦であり、死こそが至福なのだ。死が生に色を与えるのではない、死が生を輝かせるのではない。死こそが輝きなのだ。
それのない人生などただの泥船。
分かっていても、口には出せない。黒木に俺の本心など知られたくもなかった。死にたい、なんて常日頃思っている。思っているのだ。
だけど、最近はふとした時に人見の顔が頭に浮かぶ。
二度と繰り返せない時間を終わらせたくないと思うのも本心であった。
「そりゃあ教育実習ほど辛いものはありませんよ」
「…そうですか。私にはあなたは苦しんでいるように見えた。実習だなんて薄い現実じゃなくて、」
「何が言いたいんですか」
「死のない生に価値はない」
ゆったりと深い黒木の声が頭に響いた。殺される、と感じた。ぎゅっと目をつむれば、黒木が柔らかく笑う気配を感じる。恐る恐る目を開けると、綺麗な顔で綺麗に笑う黒木がいる。思いのほか優しい表情にハッとした。
「地獄でしょう」
黒木は、黒木はいったい…。
切れ長の綺麗な目を細めて歩幅を詰める。手を伸ばせば触れられる距離に黒木がいた。妙な圧迫感を覚えて後ずさろうとしたが、震える足は床に固定されたように動かなかった。
黒木は知っている。俺のこの地獄を、この繰り返される人生を。
こいつは一体なんなんだ…
「言えばいい」
また一歩、黒木が近づいた。喉の奥で飲み込んだ息はひゅっと音を立てた。
「辛いなら辛いと。信じた人に裏切られるのはもうたくさんでしょう。気を許せる人間ができるたびに疑心暗鬼に取りつかれて、好きな人にも心を許せない。溜まっていくだけでしょう。辛い…辛い…。享幸くん、あなたはどうですか?」
十数センチの距離に黒木の整った顔がある。白く細い指がそっと頬の輪郭をたどった。辛い、辛いと繰り返す黒木の優しい声が頭に沁み込むように入ってくる。俺の頭にはもうその言葉しかなかった。
「…………つ、らい」
震える唇が意思とは別に象った言葉に絶望する。目の奥がじんと熱くなった。辛い、と言葉に出してしまえば声を上げて泣きたくなってしまった。なんて理不尽な人生、なんて残酷な地獄。
黒木はにこりと笑うと、その腕で俺の頭を包み込んだ。
「大丈夫。楽にしてあげるから」
言うが早いが、視界が涙でかすんだ時には唇に温かい温度を感じた。ふわりと香る煙草に匂いに、黒木が喫煙者であることを知った。頭に添えられた手に力がこもる。逃げることなんて出来ないくらいに引き込まれる。
溺れてしまえばどんなに楽か。
もうしばらく感じていない他人の熱に、頭が沸騰したように弾けて何も考えられなかった。ふと頭をよぎった人見の顔にちくりと胸が痛む。
ああ、俺は好きなんだな。
黒木にキスをされながら、邪気のない男のことを思った。どうしようもない、どうにもできない。俺のいる世界はこっちだった。自覚したところで意味がない。
人見が好きだ。
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