第4話 連れ去って、逝って
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なるべく人に会う時間を避けたせいで、アパートに戻れたのは翌日の早朝だった。数時間しか眠れていない体は昨夜の情事も相まって重くだるい。早朝の空は雨こそ降っていないものの、今にでも雨粒が落ちてきそうな色だった。涼しさが残る代わりにひどい湿気が肌をべたつかせる。
足音を殺してアパートのエントランスを通ったとき、両手にゴミ袋を持ったスウェット姿の男子とすれ違った。ちらりと足元を見て、人見か?と緊張が走る。視線をゆっくりとまっすぐに戻すと、人見とは似てもつかない男が大あくびをしていた。緊張で早くなっていた心臓がゆっくりになっていく。落胆するとともに、ほっと肩をなでおろした。
「浅香?」
「っ…!」
階段を上がろうと曲がったとき、目の前の大男に正面からぶつかりそうになる。ハッと顔を上げると、目を丸くした人見が突っ立っていた。外行きのラフな恰好をしているのを見ると、おそらく早朝のバイトだろう。
「おはよう」
「…はやいな」
「そりゃそっちこそ。ゴミ出しか?」
聞いておきながら、俺がリュックを背負っていることに気がついた人見がなんとも微妙な顔をした。考えてみれば、昨日授業が終わってからそのまま黒木と会って今帰ってきたのだ。とても朝会うにしては違和感のある恰好である。
「あー…朝帰りか?」
気まずそうに目を逸らしながら言った人見の言葉に顔に熱が集まるのを感じた。朝から最悪だ。
「変な勘違いしないでくれる?」
目を合わせるより前に、人見を押しのけ階段を上る。後ろからは人見が曖昧な返事をしているのが聞こえた。
こもった湿気に埃臭さが漂う部屋に戻り一人になったとき、どっと疲れが押し寄せ玄関にへたり込んだ。体中が痛い。おまけに一番顔を合わせたくない奴に遭遇するなんて、ついてない。
頭痛がするのは気圧のせいか。そのまま横になってしまいたかったが、どうにか部屋にあがり服を脱ぎ捨てると、そのままベッドにもぐりこみ布団を被った。眠りはすぐに訪れる。朝方まで感じていた黒木の熱がまだ近くにあるようで、どうにも体が疼いた。
何度もイったせいで体はへとへとだし、喉は枯れて声は出ない。突かれまくったせいでケツは痛いし、なんならまだケツの穴開いてそうなレベル。
思い出せば思い出すほど、浅いうちに黒木との関係は絶つべきなのだろうと思う。しかしそんなものも思うだけで本能が拒むのもわかっている。欲求不満が抑えられない。
人見とはきっとこれからどんどん関わることがなくなっていくのだろう。人見の中で俺の存在は徐々に薄れていく。その中で俺は何にすがって生きればいい?
だから黒木を手放すことなんてできない。そこに情は絡んでいなくとも、それで成り立つ関係でいればいいのだ。
それが正しいことのわけがないのだけれど。
頭に浮かんだ人見の顔がぼやけていく。難しいことを考えがちなのも、ぐるぐると思考がループするのも、夢と現実の狭間をさまよっているせいだろう。
『ハッピーエンドを探せばいいのです』
女とも男とも知れない奇妙な声が頭に響く。案外悪くない人生だったかもしれない。残るはあと2年とちょっとだろうか。そのとき俺はどんな気持ちだろう。幸せだ、と心から言えるだろうか。もしそう思えたなら、俺はもう繰り返さなくて済むのだろうか。
「地獄でしょう」
そう言って笑ういつかの黒木に馬鹿にされたような気分になって、涙が出そうになった。夢なのか現実なのか、うまく区別のつかないゆらゆらと不安定な世界で俺は一人で泣いている。いつしかその声は子供のものとなって、目の前は見慣れた赤い夕焼けに染まった十字路に変化していた。
また戻ってきたのだろうか。隣を見上げると地元校の学ラン姿の中学生が立っている。涼しい目元に、涙ぼくろが印象的だった。白くきめ細かい肌と、その整った横顔に見とれていると、ふと少年が背の低い俺に流し目をよこした。
「享幸くん」
「え?」
「最近よく会いますね」
僕はあなたに救われたのです。あなたに生かされたのです。
ずっと探していた。
「………くろ、き?」
少年は中学生とは思えないほど妖艶にほほ笑んでみせると、ぎゅっと俺の手を握った。手を繋がれ信号を待つ小学生と中学生。俺は10歳、黒木は何歳なのだろう。黒木は今28歳。俺と5歳差のはずだ。ふと違和感を感じる。
俺が十歳の頃、黒木は15歳……中学三年生。
忘れもしません。僕が中学三年生の頃の冬だ。
ちょっと待て。おかしい、何かがおかしい。
じわりじわりと黒木に握られた手の平が汗をかく。まったくもって俺は力を入れていないが、黒木にきつく握られた手はちょっと引いた程度では離せない。ひんやりとした黒木の手のひらが急にゾッとするほど冷たく感じた。
学ランの袖につけられた金のボタンが夕日を受けてちらりと光った。俺はまだ半そでのTシャツに半ズボンをはいている。どこからともなく金木犀の香りが漂ってきた。
どくどくと心臓が音を立てる。これは真実なのだろうか。ただの夢なのだろうか。分かりたくない、知ってはいけない事実に気づいてしまったようで必死に別の可能性を探し出そうとするものの、混乱した頭では別のことなど考える余裕がなかった。
黒木が会った俺は間違いなく一度目の人生の俺だ。
………しかしならばなぜ、なぜ黒木は覚えている?
時系列がおかしい。黒木を救ったというのは、いつの話だ?黒木が中学三年生の冬、俺はすでに10歳の自分へ戻った後じゃないか。黒木を助けたのは10歳以降の俺じゃないか。
そろそろと上を見上げた。黒木はその涼しい目元からだらりと黒い涙を流し、薄い唇を赤く濡らし口角を吊り上げて笑っていた。
声にならない悲鳴がもれる。恐怖で震える俺をピエロが笑った。
「やっと見つけた、享幸くん。幸せになろうね」
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