第5話 時に飲まれる


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 放課後、授業の質問をしに来た生徒に付き合っていたからか、いつもよりずっと遅い時間になっていた。ぐっと伸びをすれば腰が痛んだ。

「腰悪いんですか?」

 隣のデスクの先生が腰をさする様子を見て声を掛ける。気の利く中年の教師に曖昧に微笑んで見せた。
 
「最近になって痛くなってきて…」
「この時期忙しいですからねぇ」

 お大事に、と言い帰っていく先生に会釈をする。
 当然腰の痛みの原因はわかりきっていた。職場では良い先生を演じておいて、そんな勤めが終われば男と乱れる。我ながら嫌な教師だと思う。

 今日は仕事が多く残っていたから、いつもよりずっと遅い時間に学校を出ることになった。いつもは聞こえる野球部のボールを打つ音と、部員の野太く若い声も今日は聞こえない。グラウンドの明かりも消え真っ暗だった。手袋もしていない手がかじかんで痛い。

 スマートフォンを確認すると、今日は金曜日であるにも関わらず黒木からの連絡は来ていなかった。だいたいどこの高校も同じようなスケジュールなのだ。おおかたテストの採点なんかに追われているのだろう。

 ショックを受けるでもなく体は軽かった。震えるほど寒いにも関わらず、一駅分歩いて普段は使わない路線へ向かっていた。見慣れない路地や店はどこか大学時代に住んでいた学生アパートの近くと雰囲気が似ている。

 近くに大きな大学があるからか、学生アパートらしい建物がいくつもある。どこも似たようなものなのだな、と珍しく感傷に浸るような気分になった。

 そんな路地裏を歩きながら、大晦日のことを考えた。とっくに実家とは連絡を取っていないからそっちに帰ることはない。一方的に来る連絡を無視し続けて、親不孝もいいものだ。そうなればやっぱり今年も一人で過ごすのか。

 果たしてそれが一番安全なのだろうか。
 俺を殺そうとするものは何が何でも殺しにくる。一人でいたからと安心してはいけない。

 妖しく笑う黒木が頭をよぎり、体が緊張すると同時に安心する。ああ、そうだ。きっと黒木が俺を殺す。

 黒木が俺を殺してくれる。

 やっと楽になれるのだろうか。なぜだか、黒木なら俺を本当の意味で殺してくれそうな気がした。

 人通りの少ない道を選んで歩いていれば、たまに通る自転車の弱々しい光と、油の差していないチェーンが空回る音が隣を過ぎていった。あまりの無音が心地よい。表情を繕う必要もなく、疲れて下がり切った口角に力も入らない。まぶたさえも重くて、元の三白眼を通り越して半目で歩いていそうだった。

 やっぱり誰もいないほうが安心する。
 そう思うのは、紛れもなく俺を見てくれる人間がいるからだろう。誰も俺に興味の1つもない、そんな世界に生きていると今度は寂しくてしょうがなくなる。どうにか誰かに触れてほしい、とそんな思いが頭を占めていく。

 満たされない欲がある限り、その先へはいけない。要するに今の俺は贅沢を極めているのだろう。

「……これって幸せなのかな」

 ハッピーエンドを探せばよいのです。
ずいぶんと久しぶりに思い出した言葉だ。考えるのも億劫だった。疲れた。
無感情とはきっとこういうことなのかもしれない。そんな思いで死んでいくのはなんだかいつも以上に嫌だな。

 いつから俺の中から憤りだとか反抗心だとかそういった感情が薄れていったのだろう。生きている実感がなんだか薄いのだ。ふわふわと浮いているような曖昧な感覚の中で生きていて。

「……」

 これ以上考えたらいけないような気がした。やっとそれなりの普通の生き方を見つけたのに。

 路地を抜けると、駅までの道は人でごった返していた。飲み屋はもう賑わいを見せている。ライトアップされいつもよりずっと明るい駅前であちこちからクリスマスソングが聞こえてくる。雑踏へ飲み込まれそうな感覚だった。花の匂いに吸い寄せられる虫のように、人の流れに沿って何も考えず明るい駅を目指し改札を通っていった。


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