3.純白に滲む


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 結局、その日家を出たのは11時を過ぎた頃だった。

 立てば芍薬な容姿のわりには走る姿が瀕死の青虫のような悟利くんが、爆速で帰ってきたのだ。聞けばお義父さんが途中まで車を出してくれたらしい。連日暑いですからね。二度手間の申し訳なさに向かえに行こうと思っていたが、その必要はなくなった。

 というのに、悟利くんが喉が渇いた家に上げろとやかましいので今に至る。自販でいいじゃん。

「なんだかんだで久しぶりに入ったなぁ。ようちゃん全然家に上げてくれないんだもん」
「上げたらお前ぜってぇ居座るだろ」
「なんなら歯ブラシとか徐々に私物増やすよね」
「付き合いたての面倒くさい彼女みたいなことするなよな」

 アイスコーヒーをすすりながらいい加減なことを言い合う。テレビもついてないリビングは妙に静かで、この家に俺以外の誰かの気配があることが慣れなかった。
 悟利くんは大きな目をぐるりと巡らせて部屋中を見渡していた。なんだか姑の手厳しいチェックを受けているみたいだ。

 悟利くんの目がシンクをとらえ、視線がゆっくりと移動していく。水切りカゴの中身までもを子細に刻み付けている。やがてその視線は食器棚へと向かった。俺一人にしてはやけに量が多いのは、ほとんどの食器が二組あるからだ。そのほとんどは奥のほうへしまわれているけれど。

 なんとも言えない居心地の悪さから、もう見ないでくれと悟利くんの目を塞ぎたくなる。この家には栞里と暮らしていた痕跡がありすぎる。

「……これは?」

 窓際に小さなプランター植物と観葉植物が置いてある。その植物の名前は知らないが、梅雨開けと同時に花が散って以降その花弁をそのままにしていた。干からびて茶色くくすんだ花びらが机の端を汚している。
 悟利くんが手を伸ばしたのは、そんな花びらに隠れるようにして埋もれる赤いノートだった。

「あー……それ」

 四方の枠を金色の金具で装飾され、同じく金色のダイヤル式の鍵がかかった日記帳だ。何度も開けようと試みた。

「栞里の日記」

 悟利くんの挙動が一瞬ののち止まったように見えた。
 何事もなかったかのように、興味深そうな目でノートを手元に引き寄せる。悟利くんはかちかちとダイヤルを弄んでいた。

「開かないの?」
「そりゃ番号知らないし、開けるのも失礼だろ」

 何度も試した。心あたりのある番号は片っ端から試したさ。もしかしたら、もしかしたら栞里が消えた原因を掴めるんじゃないかって、そう思った。

「へぇ〜別にいいんじゃん? だって気になるでしょ」
「……」

 どうしてそうも平然とした態度でいられるのか、わからない。悟利くんはいつもと変わらずあっけらかんとしている。
 かちかちと音が響いた。鍵を弄る悟利くんの手つきはとても繊細だった。ドクドクと心臓が音を立て、やけに自分の身体が強張っていたことを知る。固唾を飲んで悟利くんを見守った。

 開かないでほしい、と心のどこかで願う自分がいる。その中身を知りたくてたまらないのに、公になってしまうことはある種の恐怖でもあった。

「……開かねぇ」

 諦めたように悟利くんがぱたんとノートを机に置く。意味ありげにその表紙を指先でなぞっていたが、俺と目が合うと悪戯気に笑った。つられたように俺の肩頬がひきつる。どうせ笑うのなら、もっとうまく口角が上がって欲しかった。

「まぁでも、姉ちゃん以外と馬鹿だし? 案外どうでもいい数字なんじゃない? それか姉ちゃんは俺のこと大好きだったから、俺の身長とかさ。あはっ」
「さすがに身長は把握してねえだろ」
「ようちゃんはあのブラコンを舐めてるね」
「悟利くんも十分シスコンだけど」
「当たり前じゃん。姉ちゃん大好きーようちゃん大好きー」
「嘘くせー」

 貼り付けたような笑みを浮かべていた悟利くんがふっと息を吐く。それが一瞬でも翳りのある表情に見えて、心臓が飛び跳ねた。自分でもびっくりするくらい、悟利くんのその表情に焦りを覚えている。

「ほんとだよ」
「……まぁ、知ってるけどね」
「ははっ、ようちゃん性格悪いね」
「お前が言うか」

 未だに分からない。悟利くんは何がしたい? 俺はどうしたら悟利くんに応えてやれる? 悟利くんが俺に望んでいることは何なのだろう。

 夏は嫌いだ。嫁がいなくなった季節だから。じっとりと肌に浮く汗が気持ち悪いから。頭がどうにかなりそうになる。眩暈だとか頭痛だとか、息苦しさとか。それが暑さのせいだけなのか、他に理由があるのか。

 悟利くんを見ていると、脳が何かに侵食されていくような感覚が走る。シナプスが次々と枝分かれし、回路が繋がるかと思った矢先にぷつりと途切れる。そうして届きそうで届かないものはきっと何かの記憶。そこに触れようとしても、ひどい頭痛が邪魔をしてたどり着けない。そんな感覚をもうずっと感じている。

 妙な違和感。深追いしようとすれば拒まれる。これはなんだ?

 悟利くんの手元にある栞里の日記に手を伸ばした。

「うわっ、もう11時じゃん。ようちゃん、さっさと行くよ!」

 伸ばした手は悟利くんに握られた。はっと意識を戻される。頬に汗が伝う感覚がした。明るい髪色に反した悟利くんの黒い目は、長いまつ毛に縁どられ優し気な垂れ目をしているのに、そこに宿るのは有無を言わせない力だった。こくりと首を傾げて悟利くんがほほ笑む。

「ん? それともやっぱり俺とは遊園地なんて行きたくない?」
「い、行くよ……もちろん」

 無造作にテーブルに置かれた日記の存在は、まるでそれが栞里本人のように思えてやけに目についた。


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