1.残り香に馳せる


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「つか、どこ行くの?」

 諦めて車のロックを解除すると、悟利くんは当たり前のように助手席に乗り込んだ。エンジンをかけて、とりあえず灼熱と化した車内で冷房を最強に上げる。

 悟利くんはリクライニングを優雅に調整しながら、頬を伝う汗を拭っていた。きらりと光る汗がなんとも艶めかしい。8つも離れた義弟を性的な目で見るほど俺はクズではないけれど、ふとした瞬間に見える悟利くんの人間っぽさにどきりとした。

 あまりにも顔が綺麗すぎて、悟利くんは一歩間違えたら不気味の谷に陥りそうなほどである。そんな悟利くんが汗をかいているのを見て、そういえばこいつも人だったなと馬鹿なことを思った。

「あっちぃ」
「そりゃな」

 長いまつ毛をばしばしと瞬かせて、見た目にそぐわない荒い言葉で悟利くんが言う。テキトーにラジオをつけて車内が冷えるのを待っていれば、悟利くんが横でぐっと伸びをした。眠そうな目でふわりとあくびをする。今日はいつもよりおとなしいな。おとなしいというよりしおらしいというか。

「悟利くん今の時期ってテストとかないの?」
「ん? あぁ、昨日? くらいにたぶん終わった」
「なんでそんな曖昧なんだよ。ちゃんと受けてる?」
「まぁいいじゃん。俺はもう夏休みー。じゃ、ようちゃん。とりあえず山行こう」

 こんな時間に、山? 何それこわ。

「え、山? な、なに……おばさんでも捨てに行くの?」
「それは姨捨山〜」

 悟利くんはマップを表示すると、観光名所でもなんでもない峠を指さした。もちろん運転するのは俺だ。まぁ仕事帰りのドライブにしてはちょうどいいかもしれない。

 車を動かしはじめて少ししたとき、思い出したように悟利くんがぬるくなった缶コーヒーをくれた。なんだよぬるいのかよ、なんて文句を言っても、のらりくらりと交わされるのだろうからなんてことないようにお礼を言う。実際気を使ってくれたわけだし。

「ひゅーこの言わなくても伝わってる感。熟年の夫婦みたいだねぇ」
「ほざけアホ」

 きゃっきゃと笑った悟利くんは窓の外に目をむけている。黙っていれば触れることを許さないような独特な壁を感じる。そんな澄んだ湖面のような静かさにふと昔の悟利くんを思い出した。

 俺が初めて嫁と悟利くんと出会ったのは、もとい友屋家に出向いたのはもう10近く前の話だ。当時家庭教師のアルバイトをしていた俺は、そこそこ人気な講師だったらしい。そこでもちかけられたのが「とってもいい子なんだけどちょっと問題を抱えている」友屋悟利の担当だ。

 まだ小学生だった悟利くんはまるで人形のように美しい少年だった。ふっくらした桜色の頬にこぼれそうなほど大きな瞳。ちょんとした小ぶりな鼻が愛らしく、うっすらと色づいた唇はもはや芸術品のようだった。
年のわりにやけに大人びた目をしていて、これじゃあ同級生の中じゃ浮くだろうななんて思ったのを覚えている。実際悟利くんはあまり学校に行けていなかった。

 きっと頭が良すぎたんだろうと思う。それを傲るにしては、あまりにも優しすぎた。寂しそうな顔をしていた頃はまだまだ可愛かったというものを。

 つくづく思う。俺に執着しても意味なんてないのに。

 心や精神はとっくに成熟していた悟利くんも経験は劣る。俺はそんな悟利くんの世界をちょっとだけでも広げてやればと思っていただけだ。実際、家庭教師として友屋家に行っても一度も勉強を教えた覚えはない。教えなくてもできるんだから、教えることがないのだ。

 代わりに教えたのは麻雀だとか授業のサボり方だとか、そういうろくでもないものばかり。大学の友達と接するのと大して変わらない接し方をしていれば、いつの間にか懐かれていた。懐くにつれて年相応な悟利くんが見えるようになったのは確かにちょっと可愛かったけれど。

「ようちゃんお盆休みはどうするの?」
「どうって言っても」
「うち来るでしょ。お母さん会いたがってるよ」

 それは、と言葉がつまる。栞里がいなくなってからというものの、悟利くんがかろうじて俺と友屋家を繋いでいるようなものだ。会いに行かせる子供がいるでもない。

 正直、怖いと思う。こうやって悟利くんと会うことにすら俺はちょっと抵抗がある。大事な大事な娘さんをもらっておいてこのザマなのだから。友屋家に見せられる顔がない。

「……そうだね。お邪魔するよ」
「うん、待ってる」

 悟利くんはいったい、お姉ちゃんの失踪をどう思っているのだろうか。その胸の内はまったくもって窺えない。俺のことが大好きだなんだと言っているけど、本当のところはどう思っているのだろう。俺は二重の意味で悟利くんから栞里を奪ってしまったんじゃないか。

 恨みつらみも全て受け止める。俺にはその義務があるから。だけど悟利くんは本当に優しいのだ。優しすぎるうえに、気づきすぎるのだ。俺に向けたい怒りや悲しみがあったとしても、きっとそれを悟利くんは俺に向けることができない。

 栞里がいなくなって俺だって塞いだ。それを悟利くんは知っているから、だから俺を責めることをしようとしない。友屋家の人がみんなそうなのだ。

 罵ってくれればいいものを、無邪気に好意を伝えてくる。無償にそれが苦しくなることがある。悟利くんはわざと俺を振り回すし、俺もわざと振り回される。気がまぎれるのは確かだった。


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