4.憂いと太陽
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もともと恐れていたのだ。病院に青い顔で駆け込んできた姉婿の姿を見た時も、葬儀の最中顔を上げられない姿を見た時も、火葬場で膝から崩れ落ちて嗚咽を漏らしながら痙攣している姿を見た時も。
夢から覚めていないようなふわふわと宙にういた思考で、どこか冷静にこの人は乗り越えられるのだろうかと思う自分がいた。
怖かった。
だから2週間後に様子を見に行った時、思いのほか明るい彼に驚いたのだ。
「ああ、悟利くん。久しぶりだね」
「そうかな? ついこないだ会ったばっかじゃん」
「だって、毎週うちに来ては飯貪り食ってたろ。1カ月ぶりくらいじゃない?」
「何言ってんの。そんなに間空いてないよ」
その時、微かな違和感が頭をよぎった。げっそりと痩せたようちゃんは、頬もこけているのにそこまで表情は暗くない。
2週間前に姉の葬儀をしたときのようちゃんの様子からは考えられなかった。妙な違和感に背中に厭なものが走る。
「……ようちゃん、痩せたね」
「夏バテかなぁ」
「ちゃんと食べてる?」
「水分は取ってるよ」
「それだけじゃ駄目だよ。俺、いろいろ持ってきたよ。桃切ってあげる」
ようちゃんのところに行ってくる、と言ったとき心配そうな顔で母がいろいろなものを持たせてくれた。紙袋いっぱいになった果物やレトルト食品を我が家のようにダイニングテーブルに広げる。
ふと、机に置かれた二つのマグが目に入った。クリーム色のシンプルなデザインのものと、同じデザインの黒のものは対になっていることが一目でわかる。
姉ちゃんのコップだ。
毎週のように入り浸っていたからいやでも分かる。
「おい、桃握りつぶすなよ。お前無駄に握力だけは強いよな」
「へっ? あ、ああごめんね! 俺、これ剥いてくる」
一瞬、殴られたように意識が飛びかけたが、ようちゃんの気の抜けた声にハッと意識を戻された。食器棚から器を取り出したようちゃんが、少し重たいそれを渡してくれる。
無音の部屋はどことなく空気が滞っていた。ねっとりと、水中をかき分けるような重たい空気が流れている。エアコンが送風する機械音が聞こえてくる。外ではどこか遠く、蝉の声が聞こえる。うちよりもその声が遠いのは、雑木の少なさからだろう。
窓から差し込む陽射しは眩しかった。まるで泡入りのガラス瓶から景色を覗いているように、光が揺らいでいる。
「っ、ようちゃん」
「なに?」
「……」
なんでそんなに平気な顔してるの? もう大丈夫なの?
そう聞きたいのに、口に出してはいけないことのように感じる。
冷蔵庫から麦茶を出してコップについでいるようちゃんからは、あの日絶望していたことなんて微塵も感じられなかった。お昼に好物のオムライスを食べたみたいに、なんだか楽しそうに笑ってこっちを向く。無理をしているようには見えなかった。偽った笑顔なんかじゃないことくらい、それなりの付き合いのある俺には分かる。
口を開きかけたまま固まる俺にようちゃんが首を傾げた。
「あれ? 包丁の場所わからない?」
「い、いや……わかるよ。ここでしょ?」
「違うって、その隣」
「あれ? そっか……」
だって台所周りは姉ちゃんの城だったから。新婚夫婦の新居に入り浸っていた俺でもうろ覚えだよ、とは言えない。家でも姉ちゃんの名前を出すことに恐ろしく気を遣うというのに、ようちゃんの前でなんて言えばいい?
さっきから胸をよぎる嫌な予感と不安がざらざらとして気持ち悪い。
「俺が切るからようちゃんは座ってて」
「はいはい」
苦笑したようちゃんは素直に席について、俺がテーブルにぶちまけたレトルト食品たちをえっさほっさと整理していた。
その横顔を凝視する。うっすらと口角の上がったその表情は上機嫌だと見て取れた。病的なほど痩せたというのに。
「――っ」
ちくり、と痛みが広がった。手元を見れば指先から出血している。
「……別に痛くないけど」
よそ見してるからだ。このくらい、どうってこと。死ぬわけでもない。多少の血がなんだ。
ドクドクと脈動を感じる。ああ、俺は生きてるんだなって感じる。ぽたぽたと垂れていく血はシンクに零れ落ちて薄まっては見分けがつかなくなっていった。いやでも浮かぶのは最期に見た姉ちゃんの顔。事故だった。きっと痛かったんだろうな。
頭がぼーっとする。無意識に噛みしめていた唇を開いて血の浮き上がる指先を舐めてみれば、鉄の味に混ざって桃の皮の酸味が広がった。まだ味覚がある。手元の桃を美味しそうだとか思えないけれど、それでも――
あはは、と笑い声が聞こえた。
はっと顔を上げると、ようちゃんがお茶を飲みながら向かいの席を見て笑っている。
血の気が引く感じがした。
「……ようちゃん、」
「あ、悟利くん綺麗に向けた? 俺そういうのド下手だからさ。あっはは、ごめんごめん、ちゃんと手伝うって。さ、一緒に食べよう」
明るい笑顔。いつものようちゃん。誰にでも手を伸ばす太陽みたいな、俺の大好きなようちゃん。こんなに可愛い俺を差し置いて、俺のことを鬱陶しいほど可愛がってくれた姉ちゃんと結婚した。やつれた顔をして、目の下にクマを作って、ノイローゼのような姿をしているのに、そうやって笑うんだ。
脳を揺さぶられたような衝撃に立っていられないんじゃないかと思った。そうだよ、嫌な予感ほど的中するんだ。
「ようちゃん……ようちゃん、誰としゃべってるの?」
テーブルの上にようちゃんが出してくれた果物用のフォークは3つだった。
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