4.憂いと太陽
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鬱状態の症状が安定してきた。
といっても俺が面会を許されるときのようちゃんはいつも安定していたけど。この間見舞いに行ったときには、ふわふわ笑ってゆるゆる手を振ってくれた。なんだかそれだけで嬉しい。
「ありがとう、って」
にこにこ笑ってた。どうやらあれは薬になったみたいだった。
「喜んでもらえてよかったね。ありがとう悟利くん」
「俺がよかったんじゃなくて」
「喜んでくれて嬉しかったんでしょ?」
「……うん」
環奈さんがにこりと笑う。もうぎこちない笑みじゃない。ようちゃんが春の太陽なら、環奈さんは秋の高い空みたいだ。空気が澄んでいて気持ちいい。
ウェイトレスがワゴンで運んできた季節のパフェを俺の前に、コーヒーとモンブランを環奈さんの前に置いた。軽く礼をして去って行ってから、環奈さんがコーヒーに口をつける。俺も長いスプーンを手に取った。ここはファミレスのような安いところじゃない。周りを見渡しても、着物に身を包んだ老婦人だったり、高級なスーツに数百万はするであろう腕時計を身に着けた紳士だったりと、ずいぶん敷居の高そうなお店だった。
ついきょろきょろ辺りを見てしまう俺と違って、こんなお店にもさらりと溶け込む環奈さんはコーヒーのカップから口を離すと、伏し目になりながら口を開いた。
「悟利くんはそこまでお兄ちゃんに自分の幸せを寄せなくてもいいんだよ」
「……」
大粒のぶどうを噛みながら環奈さんを見つめていれば、目線を上げた環奈さんと目があった。瑞々しい果実を飲み込んで俺が何か言おうとしたとき、しょうがないとでも言いた気に環奈さんが笑う。
「……いや、今のはなんでもない。今日は頼みたいことがあってね」
「なぁに? なんでもするよ」
首を傾げると、環奈さんは笑ってテーブルの上に一本の鍵を置いた。何の変哲もない銀色の鍵が、かたりと音を立てる。どこかのサービスエリアで買った全然可愛くないゆるキャラのストラップは、すでに塗装も剥げかかっていた。ぴくり、と背筋が伸びる。
「あ、これ」
「ちょっと借りてきちゃった。お兄ちゃんの家の鍵」
見覚えがあるはずだった。
「実はね、もう退院の日が決まってるの」
「え」
環奈さんはテーブルの上の鍵に目線を落としていたが、ふ、と顔を上げるとまっすぐに俺の目を見つめた。
「うちの家族である程度の掃除はしてたの。でも、栞里さんの部屋だけは手を付けてなくて……いや、他のところもそうだね。迂闊には触れないよ。悟利くんも見てたと思うけど、お兄ちゃんずいぶん家を散らかしてたでしょ。そこくらいの整理しかできてない」
ゆっくりと視線を落とす。椅子やテーブルだけでなく、床までもがつるつるした乳白色の店内は、なんだか王宮の一室みたいな高貴さと清潔感に包まれていた。環奈さんの落ち着いた声音は耳に心地よく、焦る気持ちも不安な気持ちも呼び起こされない。
「だから悟利くんに頼みたいの」
「……それ、お母さんには」
「うん、伝えてある。お父さまもお母さまも、悟利くんもまだまだお辛いでしょう。でも、私たちが勝手に踏み込むのも違うんじゃないかって思ってる」
環奈さんのまっすぐな視線は誠実さに溢れていた。力なく持っていたスプーンをぐっと握りしめる。
きっとまだお母さんはお姉ちゃんの部屋に行くのもキツイんじゃないかと思う。お父さんだってそう。そんな二人の様子をわかって、本田家の人たちはすごく気を回してくれているし助けてくれる。
ようちゃんの鍵に手を伸ばした。
「いいよ、俺がやる」
ひんやりとした温度を手の中に感じながら、そっと慎重に鍵をしまう。その重みを意識してしまえば、数か月人が立ち寄っていない主の帰らなくなった部屋の様子を嫌でも想像してしまった。
行ってやらなきゃ。
「環奈さん、ひとつお願いしてもいい?」
「なんでもどうぞ」
「姉ちゃんの部屋整理するとき、俺一人にしてほしい」
環奈さんは何かを堪えるように笑うと穏やかに頷いた。
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