4.憂いと太陽
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退院は三日後に迫っていた。本田家のおじさん達はちょっと慌ただしそうにしている。
環奈さんから借りた鍵を使って、数か月ぶりにようちゃんの家を訪れた。ちょっと前までは毎日のように行っていた家なのに、数か月無人の期間があるだけで随分と雰囲気が変わってしまったように感じた。
玄関先のカエルの鍵箱も、窓際の観葉植物も、壁に飾られた俺が描いた絵も、シンプルな家具も、全部見慣れた景色のはずなのに、どこか色褪せてしまったように何かが足りない。不思議な違和感を感じる度に、胸が締め付けられるようで乾いたはずの涙が絞り出されていくような感覚が走る。
無人の部屋で静かに息を吐いてみた。微かな吐息は何かにかき消されることなく耳に届く。
「あー……っはは」
やっぱりしんどいや。片付けられたリビングだけでもこんなに苦しい。力が抜けるのに身を任せてソファに倒れ込んだ。懐かしい匂い。
「……」
時間の流れがひどく緩慢なものに感じた。平日の真昼間だからなのか、ソファに身を沈めながらどのくらいの時間が経ったのかまったくわからない。鼻が詰まるし息が苦しい。
目元に力を入れていたけど、どうやら耐えられなかったみたいだ。クッションの灰色の生地は濃灰色に染まっていた。
なんでこの家はこんなに寂しさに溢れてるんだろ。こんなにも寂しくて恋しいこの家に一人だなんて、きっと誰だって耐えられない。だけど、ここはようちゃんが帰ってくる家だ。
重い体を起こすが、正直動きたくない。ゆらゆらと覚束ない足取りで部屋を見て回った。確かに環奈さんの言った通り、目に付く場所は整えられていた。磨き上げられた洗面台には真新しい石鹸が置いてあるし、シンクはぴかぴか、本棚の上の小物にも埃は被っていなかった。
二人で暮らすには少し広い家で、余った部屋の一つずつをそれぞれの部屋として使っていたことは知っていたけれど、そこに入ったことは流石にない。少し申し訳ない気持ちを感じながら、ようちゃんの部屋のドアを開けて見る。
もともと光の入ってこない間取りの部屋だったからか、穴倉のように暗く空気はこもっていた。棚には溢れるほどのDVD。そういえばようちゃんは昔から映画が大好きだった。B級のゾンビ映画ばかり見てるものだから、姉ちゃんも呆れてたっけ。
この部屋は環奈さんたちが手を入れてくれているのがなんとなくわかった。使われていないことからの綺麗さではなくて、ちゃんと掃除をされた綺麗さが保たれていた。空気の入れ替えだけはしておいたほうがいいかもしれない。
ようちゃんの部屋の窓と扉を開けて廊下に出る。もう寄り道できるところも残っていなければ、後回しにする手も使えない。僅か一メートルちょっとしか離れていない扉に手をかけられない自分がいた。怖かった。この扉を開けることでこの世界が変わるわけではないのに。そこにとどめられた空気が流れていってしまうことすら、記憶を奪われる行為のように感じて体が思うように動かない。
「……ねぇ、どう思う? 姉ちゃん」
手を伸ばして扉に触れれば、冷えた面が指先をわずかに冷やした。
いったい何をしに来たんだっけ。だれのためにここにいるんだっけ。それなりの覚悟と一緒に来たつもりだったのにな。
「ごめんね。こんな弱虫で」
大きく息を吸って扉を開けば、懐かしい香水の匂いに体が震えた。昨日までそこで生活していたみたいなその部屋の空気に息が詰まる。
クローゼットに詰めることを諦めた服たちが無造作に投げ出され、スワッグがいくつか壁にかかっている。がさつで花が好きな姉ちゃんらしかった。ようちゃんの部屋とは反対側で、窓からは昼過ぎの日差しが温かく室内を照らしている。
そのとき、ふと窓際の机の上に置かれた赤いノートが目に入った。
「……日記?」
鍵がかかってる。分厚さからして数年分なんじゃないだろうか。ただの日記帖にしてはそこそこの値段がしそうな手の込んだ装飾が施されていた。
表紙に触れ、その存在を少し眺める。手は自然に動いていた。
ようちゃんの誕生日……開かない。
姉ちゃんの誕生日……駄目だ。
結婚記念日……駄目だった。
「……」
もしかしたら、と思い浮かぶ四桁の数字を合わせるべきか、思い悩んで手が止まった。これは冒涜だろうか。誰に読ませるでもなく書いていた姉ちゃんが生きていた証を勝手に漁っていいのだろうか。
「……」
それでも、知りたいと思ってしまう。もう二度と触れることができなければ、言葉を交わすこともできない。そんな人間と唯一とれる対話なのでは、と思ってしまった。双方向の意思の疎通はできなくとも、一方的に俺は受け取れる。姉ちゃんの残した言葉を聞きたい、知りたい。すがりたい。
部屋に沁み込んだ香水の匂い。人の気配。こもった空気。きっといつかは消えていくだろう。ここで姉ちゃんが暮らしていた空気はなくなって、その証拠はここにある物だけになっていく。記憶だけになっていく。
瞬きをしたら塩辛い水が唇に伝った。息を吸い込んだら、まるで過呼吸でも起こしているかのような音が出た。
単純な話だよ。俺はずっとずっと恋しかった。それだけだよ。だから、こんな行為を許してほしい。
震える指は冷えている。もう夏じゃない。空気は乾燥して、空が高くて、どこからか金木犀の匂いが香る季節だ。
そうだ、時間は止まっちゃいけない。
かちり、と小さな音が部屋に吸い込まれていった。ノートをめくる指が震えてページを破ってしまうんじゃないかと心配になる。
大袈裟なくらい震えた息を吐きだす音と、ぺらりぺらりとページをめくる音だけが、ただ静かに聞こえていた。
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