5.とめどなく
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一週間が経った。
夕立が窓を激しく叩く音と、微かに聞こえる遠雷と、クーラーが一人ぼっちの部屋を冷ます音以外に何も耳に入るものはない。ぼぉっとした頭はずっとぼぉっとしていて、何を考えるでもなく、ただ生命を維持するために器官を動かしているだけだった。
ふと、思い出したようにひどいことをしたもんだな、と義弟の顔が頭の隅にちらつく。他に考えることがあるはずなのに、何も思い浮かばなかった。こういうのを心の自衛行為っていうのかもしれない。
ろくなものじゃないな。自衛だなんて結局は双方に刃を向けている。ほら、人の悪口を言う人はそれを言葉にすると同時に同じ言葉を自分自身にも向けている、とかなんとか言うじゃない? きっとそれと同じようなものだよ。知らないけどさ。
じゃあ俺は自分を守るために大きな代償を払っていたんだ。例えば何? 言うまでもない、栞里の記憶とか最期とか。
虚しいってこういうことだろうか。そういえばいつだったか悟利くんが言ってたっけ。自分可愛さの自己愛に自惚れてない? とか、よく覚えてないけどそんなこと。俺がそうなんじゃん。そっか、あいつ気づいてたんだ。流石だな。情けな。死にたくなる。
どうやって気持ちの整理をつければいいのかわからない。そうやってわからないを連呼したところで何も解決はしないけど。そもそも考えることがめんどくさくなっちゃうじゃん。傷つくにも悩むにも苦しむにも、ものすごい体力を使うのだから。
それでも苦しむことってやっぱり必要なことではあるよね。
ずっと充電切れしていたスマートフォンを久しぶりにつけて見ると、実家から妹から、悟利くんから、ものすごい量の連絡が届いている。最後に俺から送った言葉は、『生きてるのでしばらく一人にさせてください』だ。
不在着信のほとんどは悟利くん。頼むからもう、構わないでほしい。君の前で俺はきっと恥をかくだけだし何もしてあげられない。あの子はこの1年間何を思って生きていたんだろう。
腹の底から湧いてきた溜息をつき、手汗の浮いた手でシャツを握りしめる。自分の感情にすら整理もつけられないというのに、他人の感情なんて受け止められるわけがない。自分の根本的なところが迷子になっている。そんな根っこがゆらゆらとはっきりしないまま人に会うなんて、怖ろしく、そして不安だ。
俺はまだ忘れていることがあるだろうか。それとも、全部全部思い出せてるのだろうか。思考を巡らせても、この一年感じていたような頭痛や違和感はない。
なんだか夢の中で夢を見ているみたいだ。きっと俺はもう抜け落ちていた、勝手に頭の中で補完されていた記憶が元に戻っているのだろう。滑稽な一年間、と呆れたような笑いが漏れ、一生懸命生きてきた一年間を簡単に笑ってしまう自分に悲しくなった。
立ちあがれば、1日何も食べていない体はふらつくなんてものじゃなくて、頭にろくに酸素も血液も回っていないような感覚がした。いっそこのまま奈落へ落ちてしまえないか、なんて思う。この家にはもう俺を待つ人もいなければ、俺が待つべき人もいないじゃないか。いったい俺はここでこのまま何を守っていればいい?
ぐらりと視界が揺れる。ただの生存本能のようなもので、なんとか水道の水を口に含む。ここの水道水は美味しくない。友屋の家はいつも澄んで冷たい水が飲めるのに、ここの水は妙に薬品臭い。口に含んだだけの水をそのままべっと吐き出した。
ほんの一瞬咥内が水を得ただけなのに、それだけでも染み渡るような感覚がする。貪るような生理的欲求のまま不味い水を蛇口から直接飲む。水でふくれた腹は一層気持ち悪くなった。
台所によろよろと座り込み、冷えた壁に額を当てる。冷蔵庫の稼働音が頭に響いた。この家に人がいようといまいと働き続ける、一定の機械音を聞いていれば時間が遡っていくような幻覚を見た気がした。
いつかは悟利くんが来た。悟利くんが来て桃を切ってくれた気がする。あの子はそうやっていつも俺のことを気にかけていた。
今回だってそうだ。あんなに俺に電話をよこして。これまで散々俺を振り回してきて。今さら悟利くんの見せる影に、不安と寂しさが含まれていたことに気が付く。一体振り回してきたのも、弄んでいたのもどっちだろう。自分への嫌悪感でたまらなくなる。
俺が最後に悟利くんとちゃんと話をしたのは何年前になるか。もしかしたらまだ悟利くんが小学生や中学生だった頃かもしれない。俺が大学を卒業してからの悟利くんの成長はあっという間だった。気がつけば声変わりしていて、気がつけば制服も脱ぎ捨てていて、今となってはもう成人している。
いつも俺の前でふわふわと楽しそうに笑っていた悟利くんが俺に見せた怒りの感情はあれが初めてだっただろうか。本当はずっとああやって俺を怒鳴りつけて殴りたかったんじゃないだろうか。
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