5.とめどなく
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「……そうだよな」
痛々しい姿を思い出し、息を吐きだす。換気もしてない室内の空気は最悪だろう。水すらも不味いのに、空気も不味い。
電源を入れていたスマートフォンが机の上で音を立てて震えた。その音に心臓を掴まれたようにハッとする。どくどくと心臓が脈打っているのがわかった。手足の血の気は引いていた。ここに来ても現実から目を背けたくて、向き合うのが怖いことから逃げたがっている。
おそるおそる、震える足で這い寄るように近づいて画面を覗き見ると、そこに浮かぶ文字は実妹の名前だった。ほっとして全身の力が抜けていくのがわかり、脱力して倒れ込んだ。無視を決め込もうとしていたが、着信音は馬鹿みたいにうるさい。早く止めよ、と思うのに何度も何度もかけなおしてくることに根負けして、目覚まし時計を止めるように電話に出ていた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
環奈の声はムカつくくらいいつものように落ち着いていた。その声のトーンにごちゃごちゃになっていた頭がすっとクリアになっていくような気がした。
「案外、思ったよりも、平気だよ。一年時間があったんだ」
「一年なんて一分よりも短いよ」
何を悟利くんのようなことを言う。
「わたし、行こうか?」
「いい。一人にして」
「それっていつまで」
「わかんないけど、まだもう少し。覚悟ができるまで」
「覚悟ってなんの? 本当にそういうのやめてほしいんだけど。当てにならない主観やめてくれる?」
急にキレたように刺々しい物言いになった妹に素直にごめん、と謝った。
「悟利くん……さ、どんな?」
「悟利くんが外から見て分かる変化なんて、他人に見せることのほうが珍しいよ。強いて言えば、一年前のほうが分かりやすかった」
「……」
「……一年経ってもそう変わらないけどね。辛いよ、みんな」
ストレートな言葉にフラッシュバックでもするかのように、胸が痛む。
「大好きなお姉ちゃんのことを同じように大好きだったお兄ちゃんと、どうしようもできない感情を共有することもできなかったんだなって」
本来だったら支え合って立っていられた場所に、ふらつきながら一人で前を向いている悟利くんの姿が目に浮かんだ。倒れることは決してないのに、今にも転びそうな様子で危なっかしくて、痛々しくも生にしがみつく姿は綺麗だった。そんな状態で、一人で立っていることで精一杯なのに、あいつは構わず人に手を伸ばす。そういうとこだよ。見せられる顔がないんだよ。
「ごめん……」
髪をかき回して顔を歪める。
「誰も悪くないよ」
兄の俺になんて向けられたことがないような柔らかい声だった。
「お兄ちゃんは限界の状態でずっとずっと頑張ってたんだよ。それは本当にすごいことだよ」
環奈が言葉に詰まる気配を感じた。ちょっとだけ、歯ぎしりでもするかのような音が耳に入る。
「生きてたら、もうわたしはそれでいいかなって」
また電話するね、とそう言って実妹は電話を切った。
静かになった部屋でばらばらと音がする。相変わらず叩きつけるような雨は降り続けていた。
薄暗い部屋で体から溶けるように力が抜けた。深海を彷徨っているような感覚だった。なんと雑音の多い深海か。
ふと、線香の匂いを思い出した。白檀の上品な香りに、くらくらするほどの匂いを放つカサブランカ。揺れる鬼灯。濃く、彩度の高い橙色。燃え、揺れる炎のようで。
ひどく鮮明な赤だった。
「……」
操られるように手が伸びる。冷えた金具に指が触れた。
金色の金具で四隅が装飾されたダイヤル式の鍵がかかった日記帳。思いつく限りの数字は試したはずだった。栞里の誕生日だって、記念日だって、全部開かなかった。
あは、と笑う悟利くんの声が蘇る。どくん、と心臓が一瞬音を立てた。じわりと手に汗がにじむ。
『姉ちゃんは俺のこと大好きだったから、俺の身長とかさ』
「悟利、くん…?」
思いついた一つの可能性に急激に頭に血が巡り、心拍数が異常なほど上がっていくのを感じた。
そうだ、まだ一度も試していない数字があった。まったく気がつかなかった。本当にそうなのだろうか。これで開いてしまったら? 中を見てもいいの? もうこの家にいない、思い出だけがとどまった彼女を、一欠片も取りこぼさないために暴きたい。
我を忘れて必死になって小さな鍵の数を合わせた。俺の指が骨ばってるせいで、何度も失敗した。震える手は緊張なのか期待なのか、恐怖なのか、冷や汗をかいている。浅い呼吸を繰り返していたら、息が詰まって思わずむせた。
「っ、は」
一瞬、目の前が白くなり気が遠くなるのを感じた。じわじわと、明滅する視界が徐々に戻り、頭の重さと逆立ちをしていたような苦しさが薄れていく。
ぱたん、と机に手が垂れた。
「開いた……」
いつの間にか、かちりとそろった数字は0920を示している。
義弟の誕生日だった。
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