5.とめどなく
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ーー
チャイムが鳴った音に気がつかなかった。無遠慮な天使のような男がバンバン玄関を叩いている。うっすらと聞こえる声は俺を呼んでいて、ハッと一瞬にして意識を戻された。
「ようちゃん! いいよね、入るよ! 開いてるよね」
どくん、と心臓が飛び跳ねる。慌ててシャツで顔を拭った。
嫌だ。今は顔を合わせたくない。見たくない。悟利くんのことを考えると心臓を撫でられるような居心地の悪さを感じてしまう。どんな顔をして、どんな風に接したらいい?
「ようちゃん!」
押し入ってきた義弟がどたばたと廊下を走ってくる。俺は動けなかった。はくはくと口が動く。
転がり込むようにしてリビングの扉を猛烈な勢いで開けて入ってきた悟利くんをぎこちなく振り返る。悟利くんは汗を流しながらも涼しい顔をしていた。夕立に降られ、髪の毛と肩が濡れている。
「……さ、とり、くん」
あまりにも掠れた声は聴くに堪えないほど汚ない。こみ上げるような何かが胸に迫り、体中がぶるぶる震えた。視界の中で、悟利くんが海面で揺らいでいるようにぼやけていく。
「……」
僅かに息を切らしていた悟利くんは俺と目が合うとぎょっとしたように目を見開いた。
「ようちゃん! どうし」
「悟利くん! 悟利くん……っ! 悟利くん!」
俺はそんな義弟を見た瞬間、張り詰めた糸がぷちんと切れたように、悟利くんにしがみついて泣き喚いていた。呆然と突っ立った悟利くんの足にみっともなくしがみついて汚く泣く三十路男の頭を、悟利くんは困惑したようにただぽんぽんと撫でていた。
「悟利くん……っ」
「ど、どうしたの? え、大丈夫?」
しゃくりあげてただ泣くことしかできなかった。悟利くんの薄手のTシャツを握りしめて引っ張って、涙と鼻水で汚れた顔を綺麗な義弟に押し付けて。なんて大人だ。なんて大人だ、俺は。
「悟利、くん」
息の仕方すら忘れてしまったみたいだった。吐けばいいのか、吸えばいいのか、もうわからない。変な声しか出ないよ。苦しいよ。胸も喉も、頭も、全部痛い。
「っ……はっ、う」
ぴくりと動いた悟利くんから、「あー」と声が聞こえた。いつもよりずっと低い男性的な声でぽつりと呟いたきり、頭の上に置かれた手は固まったように動かなくなった。
叩きつけるようだった夕立が弱まっている。庭の木立に雨粒が当たる音がしとしとと聞こえ、コオロギの鳴き声が薄暗闇に飲まれていく。
沈黙と、機械音と、秒針が進む。
微かな微風が紙をめくった。
「……そっか。見たんだね」
掠れて大人びた、寂然とした声が降ってきた。
棒立ちになって動かない悟利くんを見上げれば、悟利くんがただ一点を見つめていたことがわかる。どこか遠い目をしたその視線の先は、わざわざ追わなくても分かった。
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