1.残り香に馳せる
← 4/31 →
車の通りが少なくなってきた。大通りなんてとっくに通りすぎている。近くに寄れるコンビニなんて見当たらない。街の明かりは遠くなっていた。
「今日って新月らしいよ」
「へぇ、確かに暗いな」
途切れていた会話に継ぎ足すように悟利くんが口を開いた。囁くような静かな声は、流れているラジオとは真反対だったが、人一人通らない夜道とはよく馴染んだ。
「……晴れてよかった」
ぼそりと悟利くんがそう漏らす。
ラジオから笑い声が聞こえてきた。何の話をしてたのかは知らないけれど、車内に響くそのひび割れた音はまるで別の世界のもののようでどこか空虚だった。
「これ、そろそろ着くんじゃない?」
ナビの示す目的地が近づいている。悟利くんは窓の外へ向けていた視線をカーナビに向けると眩しい液晶画面をタップした。
「とりま上まで登って。駐車場あるからそこで一旦降りよ」
「あいよ」
おそらく自転車やバイク乗りの初心者向けの峠なのだろう。車で登るにしては少し短い距離かもしれない。峠の入り口でアクセルを踏み込んで駆けあがる。降りてきた2台のバイクとすれ違ったきりで、他には車もバイクも通らなかった。
周囲は背の高い木々に囲まれていた。夏の夜の虫が鳴く音が、窓を閉め切っていても聞こえてくる。
悟利くんはスピードを出した車の疾走感を感じるでもなく、楽しむでもなく、悠々と窓の外に目をやっている。まったくそれだけで絵になるのだから、一周回って呆れてしまう。
長く続くうねるカーブを何回か曲がって、残り一キロの看板が目にはいった。連れて来られただけで乗り気じゃなかった俺だが、正直けっこう楽しんでいた。そこまでキツイ峠ではないけれど、かなり爽快感がある。これからも仕事帰りに来てみてもいいかもしれない。
登り切った先には小さな展望台があった。開けた視界で、一台も車の止まっていない駐車場に車を停める。
「おつかれ、ようちゃん」
「なんだかんだけっこういいな。このくらい軽い峠」
「だしょ〜? 俺調べようちゃんが好きそうな峠ランキング13位だよ」
「微妙過ぎて笑う。そんなに調べてくれたの?」
「これが愛ですよ、お義兄さん」
外へ出ると、蒸し暑い空気がまとわりついた。暑さといい湿気といい、空は晴れていようが嫌な気候だ。顔の周りに飛んできた虫を手荒に払う。開けた視界を柵に近づいて見下ろせば、夜の海が見えた。街の明かりが綺麗だった。
夜景を見るなんてそんなロマンチックなことをしようと思ったことはない。こんな景色を見るのは久びさだった。仕事からの疲れもあって、ぼぉっと無心に眼下の景色を眺める。
ふいに背後からぺしんと音が聞こえた。肌と肌がぶつかるその音に若干の不安が頭をよぎる。きらきらとした明かりを見下ろしながら、ふっとため息を吐いた。
「ようちゃ〜ん、虫に刺されたサイアク〜」
ほらきた。自分が行けと言っておきながらぐずってんじゃねぇ。泣き言を漏らす悟利くんを振り返れば、わかりやすくゲンナリした顔をしている。こういうわかりやすいところをもっと同級生にも見せられればよかったのにな。俺の知る限り、悟利くんは俺や栞里にしか甘えることを知らない。
「夏なんだしこんなもんだろ。何しに来たかったん?」
「んー? 黄昏ようかと」
「日暮れてるけどな」
「あー……じゃあデートの下調べ?」
なんだちゃんと彼女いたのか。よかった。マジで俺が自惚れてただけじゃねぇか。笑えるな。
悟利くんは隣にやってくると柵に手をついて俺と同じように夏の夜景を見下ろした。
「デート、ね。本番は虫除けスプレー必須だな」
「え、本番? ようちゃんもっかい一緒に来てくれるの?」
「は?」
ぱっと嬉しそうな顔で俺のほうへ顔の向きを変えた悟利くんが自然な動作で俺の手を握った。なんかデジャブ。
「俺はようちゃん一筋だからね!」
「……」
やんわりと悟利くんの手をほどきながら、目を反らす。ひんやりとした手はすべすべしていて、ちょっとだけ柔らかかった。顔だけじゃなくて、こんなところまで中性的なんだもんな。
「そういうの、もうほどほどにしろよ」
「いい加減にしろって言わないところがようちゃんだよね〜。そういう優しさ、嫌いじゃないよ。むしろ大好きだね」
振りほどいた手は俺をしつこく追うこともなく、すんなりと離れていった。頭に浮かぶのは嫁のこと。悟利くんがふっと笑う気配を感じた。本当に笑ってんのかな。どんな表情をしてるんだろう。
← 4/31 →