1.残り香に馳せる
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「俺はようちゃんが大好きだけど、別に姉ちゃんと別れろなんて思ったことないよ。俺がようちゃんを大好きなことにそれ以外の意味なんてないから」
落ち着いた、大人びた声音だった。10歳近く年の離れた義弟にこんなことを言わせる自分が情けない。
「俺から好かれるのってそんなに迷惑? まぁ迷惑だろうがやめないけど」
「…かわいそうだなとは思うよ」
「そんなの俺の勝手じゃん。好きでようちゃんのこと大好きでいるんだから」
悟利くんはそう言うと俺の腕にぴたりとひっついてきらめく夜景を眺めていた。なんとなく空を見上げてみると、新月だからか綺麗に星が輝いていた。
「お、星」
ここでもこんなにたくさん星が見えるなんて知らなかった。綺麗な景色を見るたびに、楽しいことがあるたびに、美味しいものを食べるたびに、それを共有したかった相手を思い出す。
栞里は年の離れた弟をそれはもう可愛がっていた。血が繋がっているのに自分とはまったく似てもいない、天使のように美しかった弟をそれはそれは可愛がっていた。悟利くんはそんな栞里を鬱陶しそうにしていながらも、お姉ちゃんが大好きだった。
どうして栞里はいなくなってしまったのだろう。帰ってきてくれるのだろうか。今どこにいてどんなものを食べて何を感じているのだろう。ちゃんと幸せでいてくれるのだろうか。
悟利くんは、お義母さんは、友屋家の人は俺を恨んではいないのか。
「ほんとだ。星だ」
悟利くんが空を見上げて嬉しそうな声を上げる。気の抜ける柔らかい声に、張り詰めていた心がふっと緩んだ。
「綺麗だね」
「……そうだな」
しばらく無言で空を見上げていた悟利くんは、やがて俺のほうに顔を向けると美しく微笑んだ。手すりについた左手の薬指をそっとなぞられる。金属ごしに指が伝う感覚になぜか心臓がいやな揺れ方をした。
わずかな時間、義弟と至近距離で見つめあいさすがに少し戸惑ってしまう。目を反らすに反らせないでいれば、悟利くんのたれ目が細くなった。
「ようちゃん、来てよかった?」
若干かすれた、囁くような声が告げる。
悟利くんの賢い頭が何を思っているかなんてわからない。全部わかっているんだぞ、と見透かされているような気分になった。
やましいことはない。けれど、嫁の失踪に対する際限のない罪悪感がちくちくと自分を攻撃する。
答えようと開いた口から何に対するものかわからない謝罪がでてきそうになった。いちど唇を噛んで唾を飲み込む。
「よかったよ。久しぶりにこんな星見れたから」
「そっか。よかった」
じっと俺を見つめていた悟利くんが満足気にふわりと笑う。心の底から嬉しそうな、幸せそうなその笑顔にちょっとだけ心臓が跳ねた。
「で、でもちょっと仕事帰りだし、疲れたな。眠いし」
「あー、いいよ? 寝てて」
「うそ姨捨山?」
まじかよ、俺捨てるためにここまで来させたのか。ぎょっとして一歩後ずさると悟利くんが吹き出した。
「ようちゃんまだじじぃじゃないじゃん。帰りは俺が運転してあげるよ」
「悟利くん免許持ってたの?」
「まだ若葉だよ。命の保証はしない」
いや、満面の笑みで余命宣告するなよ。ちょっと待って、怖い。めちゃくちゃルンルンしてる。運転する気満々じゃねぇか。俺、初心者マーク持ってねぇよ。
「わー、待って待って! やっぱりお兄さん頑張っちゃう! 運転楽しいなーはははっ」
不服そうに助手席に乗り込んだ悟利くんは、お盆に必ず友屋家に行くことを約束することでしぶしぶ引き下がった。どうせ運転させるなら昼間に走りやすい道を選ばないとね。そんな機会がやってくるのかはわからないけど。
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