2.夏の破片
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世間は盆休み。もちろん俺も盆休み。アスファルトから茹だる熱気が立ちあがるなか、へろへろになって汗を流しながら、ある場所へとむかった。
どでかい門に古い蔵、柊の垣根に囲まれた広大な敷地を持つ大きな家。飛び石をたどって油石のひかれた玄関へ向かったところで、ポケットのスマートフォンが振動した。
『こっち来て』
こっちってどっちだよ。まずはお義母さんに挨拶が先だろう。
『早く』
『ねぇちょっと遅くない? 俺のこと嫌いなの?』
急かすな急かすな。めんどくせぇ。こいつちょっと面白がってるな? すーぐメンヘラのふりする。
歴史ある旅館のようなこの豪邸がどこかって。何を隠そう、友屋家でございます、ハイ。特別由緒ある家系ではないそうだけれど、団地育ちの俺からしてみたら天と地の差である。
急かす悟利くんを無視して、俺はとりあえず玄関のベルを鳴らした。鳴らすと同時に玄関の引き戸が勢いよく開いて、尻もちを突きそうになる。
目の前に目を丸くしたお義母さんが立っていた。次の瞬間満面の笑みになったかと思うと、抱きつかれる勢いで肩を小突かれた。
「陽一くん! いらっしゃい!」
「あ……えっと、ただいま帰りました……お義母さん」
「うんうん、元気そうでなりよりよぅ! ささ、暑いでしょう。上がって上がって」
上がりたいのはやまやまで、クーラーの効いた室内に入りたいのもやまやまだが、それにしてもズボンの尻ポケットがうるさい。
「あの、悟利くん……今どこにいます?」
「悟利ー? 小屋のほうかしらね。ごめんなさいね、いつもいつも相手してもらっちゃって。迷惑だったら邪険にしてくれていいのよ。昔から陽一くん大のお気に入りだからあの子」
はは、そうですネ。これ以上待たせたら、たぶん拗ねるだろうな。
「ちょっと呼ばれてるので、行ってきます」
手土産を押し付けるようにして渡すと母屋の裏手へ回ることにした。義母が声をかけるのが聞こえたが、蝉の声にかき消されてきこえないふりをした。顔を合わせていると、何とも言えない感情が押し寄せてくる。胸元がぞわぞわと、呼吸が浅くなるような。
たくさんの雑木が影を作る庭を進む足取りは次第に早くなっていった。
ちょうど離れのような位置に、蔵とは違う小さな倉庫のような小屋がある。むかし蕎麦打ちにハマったお祖父さんがわざわざ立てた蕎麦小屋らしい。今は悟利くんの作業部屋になっている。
立てつけの悪い戸を一応ノックして開ける。ムッとする空気とともに、独特の匂いが鼻をついた。
毎回思うけど、これ本当にここで長時間作業していて大丈夫なんだろうか。エアコンもついていない、ほぼ外と同じような気温である。それに加えてこの匂いだ。俺ならそうそうにぶっ倒れる自信がある。けれど、つまっていた呼吸がふっと楽になるのを感じた。
灯油や石油のような匂いで満たされた空間を、申し訳程度に回された扇風機が野暮ったくかき回していく。何度立ち入っても慣れない匂いだった。
天井近くに広く開けられた窓からは陽射しが入り込んでいる。散乱する新聞紙やバケツ、壁にぐるりと取り付けられた棚には様々な画材が無造作に突っ込まれている。
悟利くんは部屋の一番奥で、さし込んだ陽射しに照らされながら絵を描いていた。百合の絵だ。
相変わらず綺麗な絵を描く。良し悪しなんて俺には分からないけど、悟利くんの描く花はとても瑞々しく見えた。油絵っていうらしい。このひどい匂いも画材特有のものだという。
美術大学で油絵を専攻している悟利くんは、こうしてこの部屋に引きこもっては家でも絵を描き続ける。
今日は珍しくTシャツの袖を肩の上まで捲し上げていて、普段長袖のパーカーを羽織っている悟利くんにしては肌の露出が目立った。真っ白い肌が光に照らされて輝いている。伸ばしっぱなしになっていた透けた金髪も、無造作に後ろで束ねられてぴょんぴょん跳ねていた。
椅子の下の裸足をもてあそびながら、手元の筆がすいすい動く。どんどん完成されていく百合の花を、感嘆の溜息を吐きながら眺めていた。
「ようちゃん、知ってる?」
後ろを振り返ることもなく悟利くんが口を開いた。筆を持った手がまた動く。新しい色を手にとった悟利くんがキャンバスに筆をおいた。
「色は混ざると黒になるのに、光は混ざると白になるんだよ」
ようちゃんは光。あどけない声がそう告げた。
あ、と声が漏れる。
太陽のような笑顔で振り返ると同時に、百合の花が描かれた美しいキャンバスはぐしゃりと黒く引き裂かれた。
思わず息が詰まる。若干の眩暈を覚えるほどに、綺麗な絵が一瞬にして崩れたのがショックだった。
「ちょ、それいいのかよ。そんな……そんな綺麗なのに」
慌てる俺をきょとんとした顔で見ながら、悟利くんは素手でキャンバスをかき混ぜた。瞬く間に鈍い黒の渦に花が飲み込まれていく。
「あ、あ……」
なんてことを、という言葉にもならず、俺はただ呻いただけだった。悟利くんの表情が目に入って固まる。
悟利くんは愛おしそうにキャンバスを撫でていた。
「花の命は刹那だから。枯れないものは悲しいよね。永遠に美しいものは本当に美しい? 美しさは時限式、時間の流れが美しい。時間は止まっちゃいけないんだよ、ようちゃん」
「へ?」
「だから、俺が進め続けないと」
流石は芸術肌の言うことは意味不明。俺には理解できない境地だ。俺にはまったくもってわからないけれど、悟利くんには悟利くんの譲れない美学のようなものがあるのだろう。
「は、はえ〜……なる」
だからとりあえず頷いておいた。
悟利くんの扱いは下手に刺激しないことが重要である。10年の付き合いで心得たポイントだ。
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