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夕方、電話が鳴っていた。父には電話には出るなと言われている。だから、藍は一人の部屋の中でうるさいコール音への怒りに、空になった皿を電話に向けて投げつけた。
特別堅いわけではないフローリングに落ちた皿は割れるでもなく、ただべちゃべちゃについていた生クリームで辺りを汚した。いつの間にか留守電に切り替わったらしい電話からは耳につく女の人の声が流れ始める。
『灰島さん、担任の者です。藍くんですが転校してから一日も登校されてません。おうちには——』
コンセントを引っこ抜いた。鬱陶しかった。誰もが藍を心配する。そういえば母もそうだった気がする。お父さんの所へ行く、と言えば何度も何度も考え直して、と言われた。しまいにはヒステリックに叫びだしてしまうほどだった。
「みんなは何も分かってない」
お兄さんだけだ。藍のことをわかってくれるのは、穏やかに話を聞いてくれるのは、あの魔法使いのお兄さんだけ。
あの日の夜、唐突に現れた魔法使いは藍にいろいろな魔法を見せてくれた。まだ父と暮らし始める前、母と暮らしている時に遊びに連れ出してくれた父が買ってくれた玩具や、その時の鮮明な思い出。
魔法使いは杖を一振りして大きな水泡の中にそれらをたくさん閉じ込めてくれた。忘れかけていた楽しいことが蘇る。
「会いたいよ、お兄さん。ねえ、出てきてくれないの?」
ベランダに視線を向け、ぽつりとつぶやく。
ひらり、とカーテンがはためいただけで、夜の闇のような藍色の服をまとった魔法使いは気配すら見せなかった。
外はまだ、青空が白み始めたくらいで陽の光に照らされている。月の光のような銀髪をしたお兄さんには確かに不釣り合いな明るさだった。
はぁ、と溜息を吐くと、藍はフローリングに倒れ込んだ。ここ数日ずっと着まわしていた中学の体育着からはどこか酸っぱい汗臭さを感じた。
着替えようにも他に着られるものがあったっけ、と思考を巡らす。父のもとへ引っ越してきてからというものの、もともと通っていた中学校の制服とジャージ、新しく通うことになった中学校の制服とジャージ、この二種類くらいしか服がない。
「ま、いっか。はぁだるいなあ。お父さん、帰ってこないかな」
がちゃり、と音が耳に入った。反射的に立ち上がった藍は飛びつくようにリビングのドアノブを回した。が、視界に入ってきた男と目が合った瞬間、ぎくりと身体を固め廊下のトイレへ逃げ込もうとした。
ついてない。なんで今この人が帰ってくるの。
「おはよう、藍ちゃん。どこ行くの?」
ねっとりとした厭らしい笑いを含んだ声に心の中で顔を顰める。いちいち絡んでこなくていいよ、と思う。だいたい何がおはよう、だ。今は朝じゃないし。
「トイレ」
「あっはは、そんなに切羽つまるほどなの? 大? 小? どっち? 見せてよ、するとこ」
「……変態」
「照れる」
丸っこいサングラスを外した男の狐のような目が細くなる。藍は男と目を合わせながら、よくわからなくなっていた。自分はこの人とどうなりたいんだろう。仲良くしたい、とは思う。でも、こうやって絡まれるのは好きじゃない。
トイレに入ろうとした藍より先に、ドアノブに触れた手があった。これじゃあ、藍が中に入れない。
「お兄ちゃんもトイレ行きたい気分なんだよなぁ」
「じゃあ、お先にどーぞ」
「なんでよ、仲良くしようよ」
「トイレ一個しかないじゃん」
「二人入れる広さはあるよ」
「ないって」
「あるよ」
「無理だよアンタでかいもん」
「お兄ちゃん」
「お兄ちゃん、でかいから」
「ナニが」
「身長!」
噛みつくように背後を振り返って言い返せば、嬉しそうに笑った。年の離れた一番上の兄、零だ。何をしているのかは分からないが、仕事で家を空けていて不定期に帰ってくる。帰ってくればこうやって藍を揶揄って遊ぶ。
「苛々してんの?」
「そうだよ」
藍の顔を覗き込むためにわざわざ屈んだ零に苛立ちが増した。そんな小さな子どもじゃないんだから、やめてほしい。口をへの字に曲げた藍を見た兄はケラケラと笑った。
「そかそか。ケーキあげるから許して」
「ケーキ?」
零は片手に持っていた紙袋を藍に握らせた。中を覗けば確かにケーキの箱らしきものが入っている。
昨夜父に抱かれてからというものの、激しい空腹とだるさに襲われていて藍はごくりと唾を飲んだ。さっきも勝手に冷蔵庫に入っていたケーキを食べてしまった。それでも空腹感は拭えなくて、苛立ちが増すばかりだったのだ。
「食べて、いいの?」
「どーぞどーぞ? 藍のためにお兄ちゃん買ってきたんだよ」
「……食べる」
「トイレは?」
「一人で行ってよ」
冷めた目で兄を見やれば何が面白いのか腹を抱えて笑っていた。
藍がリビングで零の買ってきたケーキを食べている最中、零は部屋の掃除をしていた。ビールの空き缶も、煙草の吸殻も全部父だ。干されたままになっている洗濯物は二番目の兄が片し忘れたものだろう。溜まったペットボトルなど、みるみるうちに部屋が綺麗になっていく。
ゴミ袋が三つほどパンパンになったところで、零はベランダ側の窓に寄りかかって煙草をふかし始めた。
煙草の煙にしてはなんだか嗅ぎ慣れない。どちらかと言えば、父の部屋で香ってる煙の匂い。
「おいしい?」
「うん」
「昨日は何したの、藍」
「昨日はお父さんが帰ってきた」
「ふーん」
零は意味ありげに藍を窺い、煙を吐き出した。
父も兄と同様、いつも家にいるわけではない。ほぼ毎日帰ってくるけれど、たまに帰らなくなることがある。
「じゃ、シたのね昨日も」
なんてことないように聞こえてきた言葉に口に運んでいたケーキがフォークからぼとりと落ちた。零を睨みつける。
「わあ、なになに。別に怒ってないよ」
へらりと笑って手を振る兄の答えにふん、と鼻を鳴らす。兄の魂胆が読めなかった。それと同時に思う。普通は父親とセックスなんてしないよね? だって、母親とそんな行為はしなかったよ。それとも同性だから? 藍に自慰行為を教えたのも父だった。じゃあ、みんな父親からそういう行為を教えてもううわけ?
「ねえ、お兄ちゃん、お父さんとえっちしたこと」
「あるわけないでしょキッショ」
「じゃあオナ」
「ナイナイ」
「……」
父に抱かれることに藍は嫌悪感なんて感じない。あの時の快感を思い出せば今でも身体は疼く。父親とするような行為ではないと頭では理解できるのだ。なのにどうしても我慢できない。
「……やっぱり変だよね。お父さん、なにかおかしいのかな」
いや、おかしいのは自分自身か。
「藍ちゃんさぁ」
ふーっと煙を吐き出した零が煙草をもみ消し立ち上がった。顔を上げ言葉の続きを持つように零の動きを目で追う。ゴミ袋をまとめて外に出しに行くようだった。
「足りなくなったら、頼ってよ。あのクソ親父はいつでも打ってくれるわけじゃないからね」
近づいてきた兄がす、っと藍の腕を撫でる。少し青くなってしまっている箇所だ。
「本当はやめたいとこだけど、もう遅いみたい。俺はかわいいままの弟でいてほしいの」
「?」
零を見上げると、にこり、と胡散臭い笑みが返ってきた。サンダルを履いて外へ出ていくぺたぺたとした足音が遠ざかっていく。
藍には兄が言っていることの意味がよく分からなかった。
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