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「ふぅん、藍はお兄ちゃんが嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ。ケーキ買ってくれるし」
「ふふ、それだとケーキ買ってくれる人なら好き、みたいだね」
そんなことない、と藍は頬を膨らませる。魔法使いのぷかぷかと浮いていた身体がすぃ、と近くに寄ってきて、藍の膨らんだほっぺたと細い指でつっついた。ぷっと、音を立てて頬の中の空気が吐き出されるとお兄さんはくすくす笑った。
月光を背に、今日も魔法使いのお兄さんは真夜中の12時に現れた。不思議なあの鐘の音が鳴ると決まってベランダに姿を現す。藍はいつからか、真夜中のベランダに毎日待ち構えるようになっていた。
「でもね、お兄さんと話した日はなんだかすっごく甘いものが食べたくなるんだよ」
「甘いもの、美味しいよね」
「お兄さんの魔法?」
「そうかもしれない!」
楽しそうにころころ笑うから、藍もつられて笑ってしまったが、あの甘いものを求める体の渇きはすさまじく苦しいのだ。
「お兄さん、絶対その魔法得意じゃないでしょ」
「違うよ、藍。あれはおまじない」
「おまじない?」
にっこりと魔法使いがほほ笑む。特徴的な目尻のほくろが二重瞼に飲まれていき、ぷくりとういた涙袋が目の下に影を作った。
「藍と僕がまた会うための、ね」
ぱちん、と魔法使いが指を鳴らした。
「藍、そんなあなたに今日は素敵な兄弟のお話をしてあげよう。きっと明日からはお兄ちゃんと仲良くできるよ」
「……そうかな? でもあの人何考えてるか分からないし、なんかちょっとキモイよ」
「ふはっ」
心底嫌そうに言った藍に魔法使いが声を上げて笑った。兄のような厭らしい笑い方ではなく、どこまでも上品で綺麗な笑い方だ。
「大丈夫。藍、兄弟っていいものだよ」
「お兄さんにも兄弟がいるの?」
首を傾げてそう聞けば、魔法使いはふわりと微笑んだ。花をめでるような慈しみがこもった視線が藍を見つめる。顔に熱が集まるのを感じた。何故だかどきどきする。藍は恥ずかしくなって困ったように俯いた。
そんな藍の首筋を撫でるように魔法使いの指先が触れる。父に触れられれば自然と身体が疼いて熱を持つのに、魔法使いの手はそんな情欲を掻き立てられなかった。
すうっと藍の首筋に触れて離れていったその白い指を追うように、藍も顔を上げる。
「そう、僕にも弟がいるんだ」
「弟……いいな、きっとその子は幸せだね」
「そうかもしれない。でも、そうでないかもしれない。だって僕には彼の気持ちはわからないからね」
「お兄さんにも分からないんだ?」
そう聞いてみれば、魔法使いは笑って再び浮かんだ。空中で宙返りをして一回転するとベランダの柵に膝を抱えて腰掛ける。魔法使いの背後で星がちらちら瞬いているのが見えた。銀色に輝いた髪が、風でふわりと漂う。
魔法使いはどこからか出してきた銀色の杖を藍の胸に向けて肩をすくめた。
「僕にわかるのは、僕と藍の心だけさ」
「なにそれ、ピンポイントすぎない?」
「そうでしょう? だから僕は君の前にいるんだよ」
藍も魔法使いのように軽やかに柵の上に座りたかったが、身体がなぜだかだるくて動けない。それもそのはず、ついさっきまで父に激しく身体を使われていたのだから当然だ。思うように動かない身体のせいで魔法使いに近づけない。藍は魔法使いに手を伸ばした。その手をふわりと魔法使いが握り込む。
ひんやりとした感覚に、藍はちょっとした毒を吐きたくなった。軽口を叩けるのが楽しかった。クスクスと笑ってしまう。夜だから、声を潜めて内緒話でもしているかのように。
「いつもは出てきてくれないくせに」
「拗ねないでよ、藍。僕はいつもいるよ、君が見えてないだけで」
見えてほしいのに、と思う。思い返せば藍はろくに日中動くことができない。昼は嫌いだ。苛々して、お腹が空いて、どうしても眠くてだるくて、目に映るものに八つ当たりしてしまう。身体が何かを渇望するあの苦しさは一体なんなのか。
ああ、だからお兄さんに会えないのか。心が穏やかじゃない藍がお兄さんを傷つけてしまうかもしれないから。なあんだ、そっか。
「ねえ、お兄さん」
「うん?」
「俺がもう少し頑張れたら、次は呼んだら出てきてよ」
「そうだね、藍がどうしてもって言うなら考えてやらないでもない」
「なんだよ、急に上から目線」
「そりゃそうさ。高ければ高いほど気持ちがよいものだよ、藍」
ひんやりとした手が離される。喪失感に藍はハッと魔法使いを見上げた。
ぐんぐん、ぐんぐん空に向かって魔法使いが飛び上がっていく。きらきらと星の粉をふりまきながら、夜空に紛れる藍色が高く遠くなった。ついには月の光に銀髪が溶けてゆく。反射的に上半身を起き上がらせた藍は必死に手を伸ばして叫んだ。
「待って! 帰らないでよ! 結局お話聞かせてくれてないじゃん!」
さっきのように手が掴まれることはなかったかのように思えた。ぎゅっと、心が掴まれたように悲しくなるのも束の間。
「ああ、そうだ忘れてた。兄弟の話だっけ?」
すぐ近くから声が聞こえた。ついさっきまで空高くに浮かんでいた魔法使いはベランダに戻ってきている。ほっとして身体の力が抜けた時、ぐらりと揺れた。
「あ、れ……」
反射的に魔法使いに手を伸ばす。届かなかった。
じわりじわりと、腹の底から覚えの感覚がせりあがってくる。同時に脳内が猛烈な眠気に侵されていくのを感じた。嫌な予感がする。
「待って、嫌だ。行かないで。待ってよ。まだ消えないで。嫌だ、嫌だ嫌だ。まだ、まだ行かないで、消えないで、お願い。嫌だ。ねえ、待ってってば。ああ、嫌だ。クソッ、クソッ!」
抗えない眠気と、指一本も動かせないほどの身体の重さ。
大嫌いだ。なんだよ、これ。嫌いだ、嫌いだ。嫌いだ、死ねよ。
辛い、辛い。死にたい。
「ふっざけんなよ!」
「大丈夫だよ」
仄かな風がなびいた。柔らかい声。頬にひややかな風がかかるのを感じる。閉じていくまぶたを藍は必死に開けようと試みた。視界がぼやける。ついさっきまで、きらきらと輝いていた世界は急激に色あせていく。は、と短く息を吐いた。
嘘だ。いない。
どこ? どこ? お兄さん、どこ?
青いベランダ、暗い部屋。うっすらと霞んで消えてゆく。
「大丈夫、すぐ楽になれるよ。さあ、目を瞑って」
「お兄、ちゃん……」
「またね、藍」
夜が明ける。
白む空に魔法使いが溶けて消えた。
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