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 ヤニが染みつき黄ばんだ天井を見上げる。目覚めてからというものの、激しい眠気と怠さに加えて、いつもと同じ空腹感に悩まされていた。

 魔法使いに会った次の日はいつもこうだ。なぜだか無償に腹が立って、悲しくなって、そうしてまた腹が立つ。腹の底から湧き上がる怒りが何に向けてのものなのかは分からない。けれど脳が、身体が、何かを渇望しているのはわかる。それが手に入らない焦燥感と悲しさが鬱憤となっているようだった。

「……クソッ死ねよ死ねよ、クソッ」

 藍は呪詛のように荒く吐き捨てた。家には一人だ。今日も一人。次にお兄さんに会えるのはいつだろう。ああ、そうだ。注射。注射だ。
 ハッと、藍は思い出した。そうだ。お父さんに注射を打ってもらった日にはお兄さんに会える。その法則性にやっと、気づけたのだ。

「ちゅうしゃ……ちゅうしゃ……」
 
 のそりと起き上がり、部屋の中を彷徨った。机の角に腰をぶつける。僅かな段差につまずいた。よろけた拍子に棚に額をぶつける。

「……っんだよ」

 なんでこんな目にあわなきゃいけないんだろう。悲しい。悔しい。苛々する。もうやだ。やだやだ。死にたい。死にたい。

 頭の上に落ちてきた雑誌で感情に任せて棚を引っぱたく。お前のせいだ、とでも言うように。

「俺がいつ悪いことしたんだよ! 何の恨みがあるんだよ! 棚のくせに棚のくせに!」

立て続けに棚を叩いていれば、雑誌を握った手がしびれてきた。そのことがこの何とも言えない怒りと悲しさにさらに拍車をかけていく。

 ああ、眠い。たまらなく、眠い。頭は痛い。身体はだるい。なんでこんなに怠いの? そんなにイケナイことをしただろうか。きっとみんなして虐めてるんだ。どこかで俺を見て笑ってるんだ。

「助けてよ、助けてよお兄さん……みんなが俺を笑ってる……」

 笑い声がする。魔法使いの笑い声じゃない。誰だよ。誰がどこで見てるんだ? 誰が笑ってるんだ?

 藍は背後に厭な気配を感じて側にあったティッシュボックスを投げつけたが、そこには何もなかった。

「はっ……はっ……ぅ」

 吐き気がした。お腹が空いた。甘いもの、何か甘いものが食べたい。眠い。お兄ちゃんは? 今日はケーキ買ってくれないの? なんで買ってこないの? 食べたいって言ってんじゃん買ってきてよ。腹が立つ。なんでいないの? なんで一人なの? みんなどこにいるの?

「無理……無理……ほんとに無理」

 わけもわからず涙が出てくる。ぽろぽろと止まらない涙のせいで鼻がつまって息が苦しい。えずき、喘ぎながら床に這いつくばってもがく。そうすることでこの辛さを発散したかった。苦しくて、辛くて、早く解放されたかった。魔法使いに会いたかった。涙は止まらない。流れても流れても、次から次へと肺の底から虚しさがやってくる。

 藍はダイニングの床に行き倒れるように寝転び、しゃくりあげながら窓の外を見上げた。真っ青な快晴だった。その青に嫌気がさしたように目を背ける。真夜中の藍色が好きだった。月明かりの青白さが好きだった。照らされた青い部屋が好きだった。魔法使いの銀髪が好きだった。

 カサカサと音がした。背筋が粟立つ。何かが這いまわるような音だ。誰もいない部屋に、藍が一人しかいない部屋で何者かが入り込んでいる。藍を笑いにやってきている。それがたとえただの虫だろうと、藍にとっては自らを貶める敵であり恐怖の対象でしかなかった。

 耳に入るどんな些細な音にも神経質に反応してしまうが、それも次第に眠気が勝ち始める。あくびをかみ殺したのが最後、目を開けることもできなくなった。
 最悪の寝入りだ。

 せっかくお兄さんに会える手段が分かったのに、きっと誰かが邪魔をしてるんだ。藍にはそうとしか考えられなかった。何としても注射を打たないと。うつらうつらする頭で必死に考える。

 注射はいったいどこにある? そもそも父はいつも何を入れているのだろう。はっきりとは知らない。父はなんて言ってたっけ。兄に聞けばきっとわかる。次はいつ帰ってくるのだろう。

 ああ、眠い。眠い。楽になりたい。

「……――」

 かたり、と微かな物音がしても、もう藍は動かなかった。完全に閉じたまぶたはぴくりとも動かず、穏やかとは言えない寝息を立て始める。汗ばんだ身体にシャツがはりつき、尋常じゃない冷や汗で額に細い髪の毛が張り付いていた。
 
 こっそりと音を立てずにダイニングへ入ってきた次兄の迅は、そんな藍を見て溜息を吐き出した。

「……痩せたな」
 
 後ろでがちゃり、と玄関扉の開く音がする。続いてばたん、とけたたましく扉が締まり、その衝撃で窓やドアが震えた。ぎょっとして迅は後ろを振り返った。

「うはよぅ〜、ただ〜いまあ」
「うるせえよアホ!」

 リビングに入ってきた零に向かって小声で怒鳴りつける。焦りながら藍に視線を戻せば、ちいさく唸りながら寝返りを打っただけだった。ホッとして肩を撫でおろす。

「あれ、お前帰ってたの?」

 迅の焦りなど気にも留めないで、零は上着を呑気にハンガーにかけ始めていた。そんな余裕のある様子が腹立たしい。

「ついさっきな」
「朝帰りでちゅか〜? ナニをしてたのかお兄ちゃんに教えてよ」
「仕事だっつの」
「ははっ、お前のそれは仕事っていうんですかね」
「兄貴も同じだろ」
「藍は?」
 
 迅の言葉を無視して兄は台所で寝入る藍に視線を向けた。

「さっきまで暴れてた」
「お前が相手してやればいいのに」
「俺嫌われてるし、余計悪化するだろ」
「日頃から避けてるのは自分だろ」
「……」

 無言になれば行き倒れるようにして寝入る藍の寝息だけが聞こえた。その寝顔を二人で眺めていたが、やがて迅がひざ掛けを持ってきてそっと藍にかけた。

「暑そうじゃね?」
「……じゃあどうすりゃいいんだよ」
「半ギレじゃん。ウケる」

 声を抑えてけらけら笑い始めた兄に舌打ちをする。零も迅も、対処の仕方が分からないのが本当のところであった。こうやって、やせ細り徐々に壊れていく人間はごまんと見てきた。しかし二人がするのはそういった人間に対して、それでも金と引き換えに新たにクスリを売りさばくことで、その沼から足を洗わせる方法などは知りもしない。

「赤ん坊の子守りしてるみたいだね」
「似たようなもんじゃね」
「お前の時より可愛げあるよ」
「はぁ? お前がいつ俺の子守りしたんだよ、2歳しか違わねえだろ」
「親父は?」

 またもや華麗に話を逸らす兄に、迅は年甲斐もなくそっぽを向いて立ちあがった。

「あ、ちょっと、どこ行くの」
「コンビニ」
「なんだよ思春期かよ」

 ぱたん、と静かに扉が閉まる。残された零はまさしく思春期真っ盛りの末っ子に目を向けた。恐ろしく細い腕には消えない跡がついてしまっている。この家に来た時にはまっさらだった腕だ。顔色も悪く、この半年でずいぶん痩せてしまった。頬には涙の跡が見える。苦しんでいる形跡がよくわかった。

「どうすんべ、藍ちゃん……」

 藍の頬を指先でいじりながら途方に暮れたようにぼそりと呟く。流石の零も、これ以上藍が瘦せ細っていくのは怖かった。

「とりあえず、親父とヤる頻度減らさないとな」

 これ以上クスリを打たせては駄目だ。父親を止めることが出来た試しなぞないけれど。

「都合よく出張とか行ってくんねーかなぁ。一生帰って来なくていいけど」

 ピリリ、と着信音が鳴る。上着に入れっぱなしにしていた携帯だった。零は溜息一つつくと、携帯を手に廊下へ出ていった。



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