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 1週間だ。もう1週間、藍は魔法使いに会えてない。
 父はこのところ帰ってこなくなった。兄に聞けば、出張で都内に行っているらしい。父が帰らなくなって、今度は兄がやたら家にいるようになった。なんだかすごく嬉しそうで癇に障った。

「ねえ。お父さん、いつ帰ってくるの?」
「なーに、そんなにパパ大好き? お兄ちゃんが家にいるの、嬉しくない?」
「うるさいな」
「ごめんごめん」

 蹴りを入れれば零はへらへらと笑う。
 父がいないなら、それはそれで秘密で注射を打つことができるはず。そう考えていたというのに、今だに藍は注射の在り処を見つけられずにいた。

 というのも、父が出張に行くと同時に、なぜか兄のどちらかが家にいることが多くなったからだった。上の兄ならよかった。苦手意識のある二番目の兄がいるときは、藍は常に落ち着かずそわそわとしていた。

 早くお兄さんに会いたい。

 日に日にその想いが強くなっていく。というのに、何もかもうまくいかなくて。

「……お兄ちゃん」
「ん? どうした」
「……お腹空いた」
「あー、冷食でよかったら迅が買ってきてたから好きなの食べて」
「……」

 この人達にとって、藍と一緒にご飯を食べるという概念すらないのだ。

 ――無理だよ、お兄さん。やっぱり仲良くなんてできないよ。

 幸せな家族、そんな幻想に焦がれることしかできない。

 いいや、もともと持っていたものだった。それを捨ててまで父のところへ来ることを選んだのは藍自身なのだ。

 ふと、母親の顔を思い出す。もうずっと会っていなかった。兄の顔も思い出す。一年近く会わずにいたせいで、二人の面影をぼんやりと思い出すことしかできなかった。そんな事実に気が付き、藍は愕然とした。
 
 あんなに毎日一緒に食卓を囲んでいた家族の顔をうっすらとしか思い出せない。その日にあったことを母に話して、兄に勉強を教えてもらって。生まれてからずっと一緒にすごしてきた人だというのに?

「藍?」
「……」

 お父さんの顔は? 瞬時に父の顔が頭に浮かび、藍はほっとした。しかしその顔は常に藍を掻き抱くあの欲に濡れた瞳で、昔よく見せてくれていた優しい笑顔を思いだすことはどうしてもできなかった。

「っ……?」

 なぜかじんじんと腹の底が熱くなってきた。父の笑顔を思い出そうとすればするほど、まるで感じてるみたいに下腹部が疼く。

「ぇ、」

 びくん、びくんと勝手に下半身が波打った。咄嗟に蹲る。これじゃまるで変態だ。藍は自分の下腹部に目を落とし、息を飲んだ。

 なんで、反応してる?

「藍? お腹痛い?」

 零の声にハッとする。この人だけには気づかれたくなかった。いつものように揶揄って、遊ばれる。嫌だ。

「っは、ぅ……はぁっ」
「大丈夫? 藍」

 肩を掴まれた。下半身が疼く。そういえば父が帰って来なくなってから、一度もシていない。それどころが自分でも抜いてない。

「う、ぅ」

 一度思い出してしまったら情事のときの父の顔がどんどん蘇ってくる。思い出す度に記憶をなぞるように身体は熱を持っていく。

 涙目になった藍は顔を俯かせて、ここから早く出ていけ、と念を込めて零に唸っていた。

「……藍、」

 蹲っていた身体が仰向けに回転させられた。父とよく似た声、よく似た目元。細く切れ長の形の整った目がじっと藍を射止めていた。父より明るい茶色の髪に父より張りのある明るい肌。渋く色気のある香水をつける父とは違い、零からは爽やかなミントのような香りがした。

 零の手が藍の髪をなでる。顔を背けてその手を振り払った。

「そっかー。藍ちゃん、親父がいないから溜まってたんだね。勃起させちゃって、かわい」
「キモッ、離せよ」

 ほら、やっぱり。こうやって揶揄われるの嫌だったんだ。

 藍は精一杯手足をばたつかせて零から逃げようとした。目を開けば、頬を軽く上気させた零の顔が目に入り、父と重なった。欲に濡れた目。荒く吐き出された息。整った顔、たくましい首筋。筋肉質な腕を振りほどくことなんてできなくて。

「っふ、うぅ」

 なぜだか気がつけば涙が出ていた。この家には藍を虚しく惨めな思いにさせるものばかりだ。

「サイアク……やめろ、って」

 嘘だ。身体は求めてる。ひどくされたい。抱かれたい。記憶がとんでしまうくらいの快楽を求めてる。別に兄でいい。なんでもいい。

 なのに、頭は冷静だった。理性が残る状態では、いつもみたいに強請ることなんてとてもじゃないけどできなかった。シたいのに、言えない。恥を捨てるか否か? そんなのできるわけがないだろ。もどかしさに比例する欲に対する嫌悪感。

 涙の溜まった目で零を睨みつけていれば、零はは、と熱い息を短く吐き出した。

「あ〜っごめんごめん。大丈夫、なぁんにもしない。しないよ。大丈夫、わかってる」

 赤くした顔をにやつかせて、零が大きく息をつく。荒いその息は明らかに藍に興奮していた。片手で汗を拭い顔を覆った零はそのまま深呼吸を繰り返していた。

「知ってる、知ってる、大丈夫。藍はいつもクスリのせいであんなになってるんだからね。大丈夫、わかってるって」

 大丈夫、そう繰り返しながら零は藍の立ちあがった性器を撫でた。ひくん、と藍の身体が飛び跳ねる。

「っな、」
「だから抜いてあげるよ」
「いらない、いらない! 離せよバカ!」
「変なことじゃないって、たぶん。手伝ってあげるだけだから」
「お前鼻息荒いんだよキモイ!」
「うん、興奮してる」
「無理! 無理!」

 大丈夫、そう耳元で囁かれた。は、は、と短く息をしながら流されそうになる思考の中で藍は思いついた。もしかしたら、強請ればお兄ちゃんは注射してくれる? そうしたらきっとお兄さんに会える。恥もなくなって兄に快楽をねだることだってできる。欲しい、欲しい。今すぐにでも。

 あの全身に鳥肌が立つような、まるで自分が脱皮でもしたかのような、あの感覚が欲しい。待ち遠しい。目に映るもの全てがまるで魔法のような世界が恋しい。押し寄せる多幸感で全てを忘れて、もう悲しむ必要もなくって、辛くなることもなくって、誰かに焦がれることもなくって。この世界で一番、幸せで強くて満たされたあの感覚が――

「お、兄ちゃん……」

 かさついた声が出た。緩く藍の性器を撫でていた零がぴくりと動いた。

「ん?」
「……」

 ちゅーしゃ。

 そう口を動かそうと、唇を開いた時だった。

「――っ!」

 藍の上に覆いかぶさっていた零が吹っ飛ばされていった。


「てめえ何してんだこのクソ兄貴!」

 顔を真っ赤にして凄まじい怒気をはらんだ顔で、迅が零を殴り飛ばしていた。そのことにぎょっとしたのは零ではなく、藍だった。

 殴られた頬に手を当てながら、零は相変わらずへらへらと掴みどころのない笑みを浮かべている。呆気に取られた藍は零と迅を交互に、何度も見上げた。

 迅は相変わらず藍になど目もくれず、零を睨みつけている。普段は寡黙で、藍とは一切話そうとしない兄が、零相手にこんなにも怒っているのを見て、藍は腹の底が冷える思いがした。

「あー、クソ親父の血が疼いて?」
「はあ? 死ねよ」
「わあ、ドストレート」

 大きく舌打ちをした迅はしばらく零と睨みあっていた。やがてゆらりと起き上がった零が自分より大柄でガタイの良い迅の腕を取り、部屋を出ていく。廊下で二人が話す声がうっすらと聞こえていた。盗み聞きをするつもりはなかったが、藍は知らず知らずのうちに聞き耳を立てていた。二人が注射の場所について話しているのではないかと思ったのだ。

「せっかく……、出張……、のに」
「でも、今……は……」

 何を話しているのかなんてわからなかった。影でこそこそと話をされるのは嫌いだ。自分の話をされるのはもっと嫌いだ。聞き耳を立てるうちに、藍は激しく心をかき乱され始めていた。

 二人は自分のことを言っているのではないか。
 ひょっとして父が帰らないのは二人のせいなのではないか。
 二人が注射器を、薬を、隠しているではないか。
 理性の残る頭で快楽をねだろうとした藍のことを笑っているのではないか。

 じわりじわり、とここ数日落ち着き始めていたくすぶりが音を立ててめらめらと燃え始めたような気がした。どっと襲ってくる不安感に押しつぶされそうになる。辛さに息が苦しくなった。ぎゅっと胸元を握りしめる。急激に冷や汗がぽたぽたと垂れ始めた。

「っは……はぁ、はっ……」

 二人は藍のことを影で笑ってるに違いない。次はどう遊んでやろうかって考えてるんだ、あの扉の向こうで……

 初めて、自分の選択が間違っていたのではないかという思いを抱き始めた。父はいない、兄は二人とも藍を笑う。

 こんな思いをしなくていい選択ができたはずなのに。それを捨てたのは藍自身。

 母の静止を振り切って、父の元に来た。母は泣いていた気がする。どうしてそれすら満足に思い出せないのだろう。兄も悲し気な顔をしていた気がする。わなわなと震えて両手を握りしめていた気がする。

 どうしてそれを振り切ってくることができたのだろう。毎日一緒にご飯を囲める家族がいたのに。あそこにいた時はこんな不安感なんて抱かなかったのに。

 なんで、どうして。
 悲しい、悲しい。辛い。

 そんなときに浮かぶのはやっぱり父の顔なのだった。もう一度、優しい笑顔を向けてほしい。藍のために笑ってほしい。

 そんな笑顔を見れたのいつになるだろう。父の元に来てからは、あの笑顔は見れなくなった。藍が母の元にいるころ、定期的に会いに来る父はいろいろなところへ連れて行ってくれた。いろいろなものを食べさせてくれた。二人きりで。

 その度母はひどく心配したのだった。帰るなり、血相を変えて出迎えて、何か変なことはされてないか、嫌な思いはしてないか、と藍が怒り出すまで聞き出すのだ。

 藍はそれが嫌だった。優しくてかっこよくて、きっとこんな人がお父さんだったらみんなにも羨ましがられる、そんな人を悪く言われるのが嫌だった。

 定期的に二人きりで会うことになっていたおじさんが実の父であることを知らされた時はとても嬉しかったのだ。だから、母が追い詰められたように青い顔をしているのが悲しかった。

 母は分かってくれない。お兄ちゃんは居心地が悪そうに黙り込む。

 零は笑う。迅は無視する。父は帰って来ない。


 お兄さんだけだ。あの銀髪の素敵な魔法使いだけが藍の全てを肯定してくれた。

 会いたい、会いたい。出てきてよ。


 会いに行かないと。会いにいけばいい。注射を打たないと。待っていて、お兄さん。




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