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思わず目を開ければ、濡れ羽色に光る柔らかい黒髪が頬に当たった。あまりにも近すぎて、あまりにも綺麗すぎて、ぽかんと口を開ける。火照った顔の衣笠がぺろりと唇を舐めて艶やかに笑った。
「見えた?」
咄嗟に視線を逸らしたら、同時に衣笠が俺の鼻に噛みついた。
「いっ……は、はぁ? なに……? なに?」
衣笠は舌で俺の汗を、涙を舐め取ってる。頬と頬が触れ合って、その熱が伝わってくる。衣笠の舌の感触が柔らかくて暖かくて。こそばゆさを感じると同時に体中にぞわりと痺れが走った。
「え……? は、え、なに? なんなの……?」
「しょっぱい。斎間くんは見られるのを嫌うよね。どうして?」
ちゅ、とリップ音を立てながら衣笠の唇が俺の額に触れて、離れて。俺ははくはくと酸素を求めながら、息も途絶えがちに視線を落ち着かずに彷徨わせていた。心臓が浮いたような嫌な緊張に包まれる。酸欠でか、くらくらした頭がじんじんと痛い。
「ね、斎間くん」
「っは、やめ……」
視線を感じる。見られてる。俺の汚い肌、低い鼻、左右非対称の目、全部全部恥ずかしい。人に見られるなんて耐えられない。こんな俺を見ないで。お願いだから、俺の嫌いな俺を暴かないで。俺の大嫌いな俺を見ないで。
目こそ合わなくとも、視線が舐めまわすように俺を見ているのが分かる。顔だけじゃない、体だけじゃない。脳内にまで侵入してきそうなその視線が怖くて。恐怖と緊張で、胃の気持ち悪さがだんだん現実味を帯びてきた。
「い、がさ……」
「ん」
「見んな……見んなよ、離れ、」
「いや」
「っ、無理なんだって。ぅ、まじで」
気持ち悪い。
「っは、ぁ……っ」
あり得ないほど唾液が湧いてくる。嫌な予感がした。
「ははっ、死にそうな顔してる」
滲んだ視界の中で、頬を紅潮させた衣笠が笑うのが見えた。逆光で影になっているせいか、目が笑ってないように見える。衣笠は八重歯を見せてうっとりと笑った。
「斎間くんは欲張りだ」
「ん、ぐ……」
ぐ、と衣笠の指が咥内に入ってきた。人差し指と中指が口の中でうごめき、舌を引っ張ったり上あごに触れたりする。胃の気持ち悪さは極限に達していた。かぽかぽと喉奥から締め出されるようにして空気が出てきて、酸の匂いを感じた。
「ぅぐ、う」
「斎間くんは綺麗だよ。誰よりも綺麗だよ。だけど、こんなんじゃ満たされないんでしょう? あれが欲しい、これが欲しい、羨ましい、ずるい。そうやってずっとずっと自分と誰かを比べ続けるんだ。斎間くんは特別になりたいし、特別と自分を比べ続けるよ。欲し続けるよ。だから俺は全部あげるって言ってるのに」
衣笠の指が喉奥をついた。ぐ、と変な音がする。俺の喉から出た音だった。
「っか、ぁ、う」
「ねえ、なんで斎間くんはそんなに自分を認められないの? どうして自分が努力で手に入れたものまでけなすの? かっこいいってなんだと思う? ねえ。それは全部斎間くんだよ。みんなが素通りする守衛さんに挨拶をする斎間くんだよ。授業すら取ってない教授にも会釈する斎間くんだよ。名前も覚えられてない先輩にお疲れ様ですって言える斎間くんだよ」
衣笠の指に力が入る。頭が真っ白になった俺は、もはや本能的に衣笠を押しのけていた。急いで口を塞いでトイレに駆け込もうとしたが、後から衣笠が腰に手を回してきたせいで衣笠の膝の上にどすんと尻もちをついてしまう。
耳元で衣笠の熱を帯びた声が囁いた。
「俺に憧れて、こんなにいっぱい努力しちゃう斎間くんだよ」
「う、」
慌てて衣笠から離れようとしたが、腰に回った手が反対に引っ張ってくる。それどころか、衣笠の腕は俺の胃をしめつけ、あろうことか拳を食い込ませてきた。
「ん、ぅ」
「でも斎間くんはそんな斎間くんが嫌いなんでしょ? だったら全部、俺がもらってあげる」
「ふっ、ふ、う、んぅ」
まずい。
ばたばたと足を動かして、必死に逃げようとした。だけど俺が動く度に衣笠の拳がみぞおちに食い込む。耳元に衣笠の熱い吐息がかかり、頬に髪が触れた。さらに口を覆う手を外された瞬間、
「――――っ……! っは、ぁ……かはっ……は、は……」
びちゃ、と汚い音とともに吐瀉物がフローリングを汚した。くらくらする頭の中は、ようやく楽になれた脱力感でいっぱいで、やってしまったことの羞恥がやってくるのにずいぶんと時間がかかった。
「はあ……はぁ……っは」
「……ふ」
力の抜けた体を衣笠の背中に預けていて、その規則的な脈がずいぶんと速いことに気がつく。俺の肩に顔を埋めた衣笠の髪がしっとりとしていて気持ちよかった。重い手を挙げて衣笠の髪を引っ張る。その頃になって、ようやく俺はフローリングを汚してしまったことの現実を思い出した。
「……あ……い、がさ……」
ぎゅう、と腰に回る手がきつくなった。衣笠が後ろでふふ、と笑っている。
「お昼に一緒に食べた定食、美味しかった? これは一度でも斎間くんの体に入って、斎間くんの胃液で消化されかけた、一瞬でも斎間くんの体になった斎間くんの一部だ」
「い、……な」
衣笠の顔を見下ろせば、衣笠は上気した顔を嬉しそうにほころばせていた。知らない。こんな顔見たことない。
「はぁ……? なに言って、きたねえよ」
「なんで? これは斎間くんの一部だよ」
「……」
悪かったよ。全部自分で片付けるから。そんなこと言わないで、もう勘弁してよ。離せよ。
俺が歯を食いしばって顔を顰めていれば、ニッと衣笠が笑いかけてきた。驚くほど邪気のない笑顔だ。
「だから、全部出しちゃえばいいよ。ここにあるものは全部斎間くんを作るものだから。全部出して入れ替えたら、斎間くんも生まれ変われるんじゃない? 代わりに俺のを上げるから」
「は、はぁ? お前、何言ってん」
の、と最後までは言えなかった。焦点が合わないくらい近づいてきた衣笠の顔に飲み込まれ、柔らかい唇が触れ合った。
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