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気づいた時は頬に冷たい風が当たっていた。ゆらりと顔を上げるとサークルのメンバーが円になって集まっていて、どうやら外で解散の挨拶でもしているようだった。背の高い上野に腕を担がれてるから肩が痛い。もぞ、と動くと上野が眼鏡を光らさせて俺を見下ろした。
「お、起きた」
「あー……わりぃ。このまま送ってくれろ」
「第一声から暴君でウケる」
俺がぼんやりとしている間に、幹事のしめは終わっていたようだ。新入生たちを帰しながら、二軒目に行こうとする飲みが好きな連中。帰ろうともせずペチャクチャ喋ってる酔いを見せない奴ら。大人しく帰るのは俺や上野みたいな目立たない奴だけだ。早く帰って寝よう。
「さっいまっくん!」
そう思っていたが、突如はっきりと聞こえてきた衣笠の声に一瞬脳がクリアになった。まずい。上野に担がれていた反対の腕ががしっと掴まれる。
「帰ろう帰ろうー!」
「は、ひっ」
「お、衣笠が送ってくれる? サンキュ助かるぅ」
助かるゥじゃねえよ。送ってくれるって言ったじゃん! 俺最初に約束させたじゃん! 家に帰れればいいわけじゃねえんだよ! 問題はこいつなんだよ。
「いいえ〜じゃあ君も気をつけてね。横野くんだっけ?」
「あ、上野です」
「あーい、ばいばい上野くん!」
あれ、そういえば田代くんは? もっと話したかったな。連絡先だけでも聞いとけばよかった。新歓と言ってもまだ正式な入会届は出してない。このサークルに入ってくれるとは限らないのだ。広い大学内でたまたま会えるなんて相当の確率になる。
まだぼんやりとした頭でそう考えていれば、衣笠の能天気な声が聞こえて反射的に苛っとした。
「お酒飲んでたの?」
「飲んでない……」
俺は頼んでないし……飲むつもりなかったし……ただの事故だし……
体に触れる衣笠の体温が温い。こんなにくっついて歩かなくていいじゃん。抱え込まれるようにしてゆっくりと歩いていたが、そんな気を遣ってもらうほどじゃない。別に気分が悪いわけでもあるまいし。
「気持ち悪い?」
「別に」
「そう?」
「うん」
少し暴れたら衣笠の体は離れていったが、大きな手は俺の手を握ったままだった。俺の火照った身体は手の平まで熱くしていて、衣笠の冷えた指先が心地よかった。いつの間にかこうやって衣笠の前で醜態をさらすのに慣れ始めている自分がいる。
「斎間くん、一人でお風呂入るの危なくない?」
「別に明日入るからいーよ」
「斎間くんの家、次の角どっち?」
「……? 右だけど」
珍しい。いつも衣笠は問答無用で自分の家に連れていくのに。
「ああ、この道まっすぐ行った先の十字路の左側のたばこ屋さんの横の道を突っきったアパートの2階だよね」
いや、なんで知ってんの? 熟知してんじゃん。今俺に聞いた意味あった?
この辺りは人通りも車の通りも少ないし、歩道がなくなっているから少し危ない。おまけに街灯も少なくて道は暗いし、たばこ屋の前にある自販機の明かりが頼りだった。がさ、がさ、と俺と衣笠が歩く音しか聞こえない。近くには衣笠の温もりを感じる。この道を少し行けば、俺の住むアパート。
「…………」
あれ? 待って。
俺、今、衣笠を家に上げようとしてる?
がさ、と足音が止まった。振り返った衣笠が俺の顔を覗き込んできたから、顔面を手のひらで押しのけた。
「わ、どした? 吐く? いいよ。なんならぶっかけても」
「キッショやめろ帰る」
「そだね」
そだね、じゃねえよ。お前にはお前の家があるだろうが。
どうすれば衣笠を家まで連れて来ずに済むか、アパートを目前にして俺は立ち止まった。そんな俺の隣で衣笠もしばらく立ち尽くしていたが、思い出したように俺のポケットに手をつっこみキーケースを探り出した。
「なんだ、鍵なくしたのかと思ったけど持ってるじゃん」
「おい」
「ん? や、やだな〜ちゃんと返す返す、ホラ……え、マジで具合悪い?」
立ち止まって動かなくなった俺を心配そうな顔をした衣笠が覗き込んだ。いつもの八重歯をのぞかせて笑ってる顔とは違う。眉をひそめて俺を窺うその顔は、どちらかといえば衣笠が誰とも話していないときに見せる凛とした表情に近かった。猫目がちで形の綺麗な目が青白い自販機の明かりに照らされる。高い鼻筋の影がくっきりと浮かんだ。
あまりに整ったその顔を真正面から見てしまって、ようやく酒の動悸が引いたところだったのに心臓は大きく脈打った。ごく、と唾液が嚥下した音が殊の外大きく、恥ずかしくなる。
「や……別に平気」
「うーん」
「大丈夫だって」
衣笠から受け取ったキーケースを手に、俺は諦めてアパートの階段を登った。後ろから衣笠も当たり前のように着いてくる。
最低限のものしかない部屋ではあるが、衣笠の家よりは数倍綺麗なはずだ。とはいえ見られたくないものはいっぱいある。知られたくないものもいっぱいある。
妙な汗をかきながら鍵を回していると、背後から頬に冷たいものが当てられた。思わずびくりと背中が反って、後ろを振り返れば今度は唇に柔らかい感触が押し付けられた。
「……っ」
固まった俺にさらにぐいと近づいて、衣笠が舌を押し込んでくる。がつんと頭が後ろのドアにぶつかって少し痛かった。
「んっ」
「は……」
咥内を蹂躙するわけでもないそのキスは、舌を絡めるだけで離れていった。いつもくどいくらいに舐めまわしてくるから、あっけなく離れていく熱にぽかんとした顔で衣笠を見上げてしまった。暗闇の下で見る衣笠の表情はいつもより固い。唇からひいた唾液が光って、見えなくなった。その唇がうっすらと持ち上がると、衣笠は俺から一歩下がってペットボトルの水を押し付けた。
「じゃあね。いっぱいお水飲むんだよ。あったかくして寝るんだよ。床で寝ちゃダメだからね。危ないから今日はシャワーだけにするんだよ。明日は2限にレポート提出だから忘れずに」
「わ、わかったわかった」
思わずとめると、衣笠はムッと口を閉じた。いや、そんな顔されても……てかなんでお前が俺のレポート期限まで把握してんだよ。学部違うだろ。
「わかったから、お前も………気を付けて、帰れよ…」
ぱち、と衣笠が目を瞬いた。その目に捕らえられる前に、俺は部屋に滑り込むとロックをかけた。
暗い廊下にはひんやりとした重い空気が沈んでる。閉め忘れたカーテンからは藍色の光が室内に落ちていた。
なんだか胸が変な感じだ。いつもはもっと、気持ち悪くて吐いちゃうのに。酒のせいじゃないのかな。
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