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「…………お会計840円です」
「うわ、嫌そー。久しぶりに食べにきたんだから、もっと営業スマイルちょうだいよ」
「たいして間隔あいてねえだろ」
「スマイルくださぁい」
「帰れ」
むぅ、と頬を膨らませた衣笠の手におつりを乗せれば、引っ込める前に指を掴まれた。衣笠の指先は一瞬びっくりするほどに冷たい。そんな指先で、俺の指をじれったくもんで遊んでいる。手を引けば、反対に引っ張られしばらくそんな押し合いが続いた。
ラストオーダーも終えた閉店間際だから店内は静かで、同じシフトに入っているバイト仲間の視線が痛い。今日もちょっとやそっとでは帰ろうとしない衣笠はずっとレジの前に居座っている。
「斎間くん今日は? この後暇だよね」
「……暇じゃない」
「えぇ〜またぁ?」
顔をしかめて俺の指を握った衣笠は、しばらくぐちぐちと文句を垂れていた。基本的に体温の高い俺の手で、衣笠の指はぬるくなっている。いい加減指を引き抜くと、今度は思いのほか抵抗されなかった。
「まあ、いいけどさ〜。じゃあね、斎間くん。今度、斎間くん家行かせてね。田代くんによろしくね」
ふわ、と笑った顔に八重歯は覗かなかった。墨色の瞳と一瞬だけ目が合う。背の高い衣笠が俺を見下ろす形になってしまうからか、若干伏せられた目には長いまつ毛の影が落ちていた。
「ありがとうございました……――」
カラン、とベルが鳴って店を出ていく衣笠の後ろ姿が見えなくなって、俺はん? と気がついた。
あいつ、なんで俺と田代くんが仲いいって知ってんの?
「ごめんね、おまたせ」
「いえいえ! てか俺も斎間先輩のバイト先食べに行けばよかったな」
「そ……れははずいわ」
大学の最寄から二駅離れた場所に田代くんは一人暮らしをしていた。最初に俺の家に来てからというものの、定期的に俺たちはお互いの家を行き来するような仲になっていた。 今日は田代くんに必修の授業のレポートを見てもらいたいと言われ、去年使っていたノートやらを貸しに来ていた。同じ学部だからか、そういう相談を気軽にしやすいらしい。
正直会って間もない人間を勢いあまって突然家に呼ぶなんて、冷静に考えたら普通に引かれそうな誘いだった。だけど田代くんは入学して間もなかったからか、初めての一人暮らしに少し心細さを感じていたらしい。だから俺の距離の詰め方がバグった誘いも結構嬉しかったのだとはにかみながら言っていて、俺はこの健気な後輩が気に入っていた。
「斎間先輩のバ先って今募集かけてます? そろそろ落ち着いてきたから俺も今バイト探してるんですよね」
「あー……募集してた…気もする」
本来ならもっとバイト先も斡旋してやりたかったが、あそこはやたらと衣笠が来る。衣笠と話してるところは正直あまり見られたくない。でも、田代くんが同じバイト先にいたら、もっとバイトも楽しくなるのにな、なんて思った。
ふ、と頭に衣笠の顔が浮かび、そういえばしばらく衣笠の家にも連れていかれてないことを思い出した。なんだか最近、衣笠は口数が少ない。視線は逃げ出したくなるほど感じるのに、前ほど鬱陶しく絡んでこなくなった。だからって、何が変わるわけではないけどな。
「ん、これこないだ借りたタオル」
「わ、ありがとうございます! 斎間先輩が洗ってくれた洗濯物っていい匂いするんですよね」
そんなことを邪気のない笑顔で言われて、嬉しいよりも恥ずかしいと思ってしまった。柔軟剤もシャンプーも石鹸も、俺の身の周りにあるものは全て盗んだようなものだから。衣笠はそれに気づいているだろうか。
うきうきしながらカップにコーラを注いでいる田代くんを見ながら、俺は心の中に浮かんだじめじめした感情を追い払った。衣笠はどこにいたって俺の嫌な部分を見せつけてくる。
「そういえば、斎間先輩って衣笠さんと話したりします?」
「うぇっ、と、衣笠……?」
今まさに考えていた男の名前を出されて、俺は上ずった変な声を上げてしまった。田代くんが不思議そうに見ている。
「い、やぁ……衣笠、今年から入ったから、あんまり……?」
「そうなんですか? 衣笠さん、めちゃくちゃかっこいいですよね」
知ってる。知ってるよ。なんなんだろうな。あの人の視線を惹きつける雰囲気は。口を開けばただのアホなのに、黙っている時の衣笠の精錬されたような美しさ。八重歯を見せて、目尻に皺を寄せて、そうやって笑ってくれないと、到底話しかけることもためらわれる。
いいよなあ。本当、いいもの持ってるよね。
全部あげるよ、と衣笠の声が耳元で囁かれたように蘇った。
違う、そういうことじゃない。頭の中で溜息を吐く。卑屈になる俺と違って、田代くんは相変わらず楽しそうで、興奮したように話していた。
「俺あんなかっこいい人初めて見ました! こないだ学食で居合わせたんすけど、俺のこと覚えててくれたみたいで昼飯奢ってくれたんですよ! 同期に言ったら妬まれそうだなぁ」
「そう……?」
相変わらず男女問わず人気なんだな。片頭痛を起こしたように頭や胸がずきずき痛む。俺は衣笠にはなれないってのに、一体何に嫉妬してるんだろう。こうやって田代くんみたいに純粋な好意向けられるのが羨ましい。
「そうですよ! なんか俺だけよくしてもらって……あ、それとも誰にでもあんな感じなんですかね? わぁ、そしたらもっと罪な人じゃないですか〜かっこいいなぁ」
誰にでも、ね。
いや、きっと誰も知らないよ。あいつけっこうキモイし。
「…………」
うわ。俺、キモ。優越感? なんでストーカー紛いの俺がストーカーみたいな奴にそんなこと思うんだよ。もうよくわかんない。
あいつ、俺のなんなんだよ。
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