#3




「ちょ、衣笠……」
「ふふ、はは……えへへ……」

 怖い怖い。なんか変なスイッチ入ってる。

 ぎゅう、と玄関で後ろから俺に抱きついてきた衣笠はずっと俺の首筋に顔を埋めて笑ってる。正直、全力で走って逃げたせいで俺はずいぶん汗をかいていた。寒さに厚着をしたのが裏目に出て、こもった汗が乾きかけて汗臭くなっているはずだった。衣笠を剥がそうとするも、体格差がある男にこうもがっつり抱え込まれれば抜け出すこともできない。

「衣笠ってば!」
「んー、ふふ」

 本当に大丈夫なのか? 人の言葉忘れてない? 衣笠を引っ付けたまま無理矢理歩く。やっぱ重いなこいつ。

「な、なに……? なんなの、どうしたのお前」
「……あ、そうだホテル行ってみない?」
「なにがあ、なのかわからない……わざわざ家まで連れてきといて、なんなんだよ」
「だってベッド大きいし」

 やっと日本語話し始めたかと思えばこれかよ。

「嫌だよ。なんでだよ。おかしいだろ」
「今時はさぁ、ホテル誘う時って、ちょっと休憩できるところ行かない? って言うらしいよ」
「中途半端なオブラートってキモさ増すな……ダイレクトにホテル行こって言われた方がマシなんだけど」
「だから俺、言ったじゃん」
「行かないし帰るし、キモイんだけど」

 でも、衣笠が耳元で囁いた。吐息がかかって背筋がぞわりと粟立つ。

「興味あるでしょ」
「…………」

 な、なくはないよ? だって行ったことないし。でもおかしいだろ。なんで男で、しかも友達でもない男と行くことになるの? ホテル女子会ならぬ漢会? うわ、すっげぇくさそう。青臭そう、生臭そう、絶対嫌だ。あ、でも、衣笠はいつもいい匂いがする。え、それじゃあ、臭いの俺じゃん。うわ……いや、知ってた。知ってるって。俺、今臭いもん。

「ねぇ、斎間くん」
「……」
「あら、どした?」

 黙った俺の頬を衣笠がつんつんつついてくる。汚れるだろうし、やめてほしい。汗もかいてるし、指にファンデがつくぞ。

「俺さー、一回ジャグジーあるホテル行ってみたいんだよねぇ」

 もしかして、衣笠は行ったことがあるのか? え、誰と? ……女の子と、行ったの?

「あとAV鑑賞会したくね?」

 したくねえよ。一ミリも思わねえよ。一人でおなってろハゲ。
 ……い、いや、本当はちょっと見たいけど。

「あとアレ。そういう玩具見てみたい」
「お、玩具って……」
「目隠しとか?」

 あ、ああ、そういうね。もっとヤバイものを想像していた俺は、勝手に恥ずかしくなって衣笠の腕の中で身じろぎした。俺が動けば余計に、衣笠が腰に回す腕をきつくする。俺たちは未だに玄関付近で止まっていた。

「……衣笠」
「ん」
「行かない」
「えぇ! じゃあ斎間くんの家行く!」
「いや、なんでだよ」
「いいじゃん! 俺行ったことない!」

 なんかチョコあげたほうが余計にめんどくささ増してないか?
 俺があまりに嫌そうな顔をしていたからだろうか。衣笠はしばらく黙っていたが、やがて玄関近くの引き出しから大きめのハンカチを取り出すと、何の前触れもなく俺の目を隠すようにして巻いた。

「!? な、なに」
「……歩いて」
「え、ちょ」

 背中を押される。唐突に視界を奪われて、咄嗟に外そうとしたけれど、両腕を衣笠に取られていて、俺はそのまま前に進むしかなかった。腕は衣笠に掴まれているし、背中にはぴったりと衣笠が張り付いている。何か危険があってもきっと大丈夫なんだろうけど、視界を奪われたことの不安は想像以上だった。覚束ない足取りで一歩一歩と前に出る。

 耳元らへんだろうか。衣笠の吐息がわずかにかかった。目から入ってくる情報がなくなってしまったせいで、余計に身体に触れる熱や声に過敏に反応してしまう。

「い、衣笠……?」

 相変わらず腕は衣笠に取られていて、ただ押されるがままに歩いた。正直心細さを感じていた。

「ん?」

 衣笠がぎゅっと俺に回した腕を強めた。その力に安堵して、立ち止まる。衣笠の腕が動いて、首筋を撫でられた。

「ひっ……ん、だから、なんなんだよ」
「いやー、本当は俺も斎間くんと気持ちいいベッドでAV鑑賞会しながらジャグジーで遊びたかったんだけど」

 欲望が全部混ざると、やってることただの3歳児の日曜日みたいだな。AVのAはきっとアンパンのAだろう。

「駄目ならせめて目隠しでもしとこうかなーって」

 急に不健全。なんで?

「いや、おかしいでしょ」

 認めろ、俺。衣笠はどれだけ何を言っても無駄だ。最近になってようやくわかってきたけれど、こいつは頭のねじを数本どこかへ落としている。たぶんその数本はよっぽど大事な部分を繋いでいたものだったらしい。

「だいじょぶ、だいじょぶ。今日バレンタインらしいから」
「どういう因果!?」

 衣笠に背中を押され、つんのめった俺は息を飲んだ。何があるのかわからない。倒れるかもしれない。何かにぶつかるかも。
 一秒にも満たない間、様々な恐怖が頭をめぐる。ぼふん、と頬に柔らかい感触がした。

「っ!」






目次
戻る