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・・・

「如月、くん」

 耳に心地よいなめらかな声がつっかえながら呼びかけた。

「……はぁい?」

 振り返ればピンク髪がふわりと揺れる。今日は黒いマスクをしてるもんだから、余計に近寄りがたさが増していた。

 ピンクの髪に派手な模様のシャツ、ダボついたサルエルパンツに、厳つい厚底の編み上げブーツを履いている。俺から見たら十分にアバンギャルドな男だ。このファッションで街中を歩ける人間は限られるのではないだろうか。桃尾のスタイルのよさと顔面の良さがなければ、完全に人間が負けるだろう。首にも腕にも耳にも、銀色の鎖のようなアクセサリーがじゃらじゃらとついている。

 そんな充分に尖った感性を持っている割には、まるで全体主義の権化のような宗教に熱をあげている。

 この間会った時に比べれば、桃尾の目の下のクマはなくなっていたし、頬も少しばかりふっくらとしたように思う。あのノイローゼに追い込むような信仰宗教とはお別れできたのだろう。その証拠か、今日の桃尾は初めて俺によそよそしさを見せていた。

 そうだよ、普通はこんなもんだよ。これまでの桃尾の距離感がバグってただけで。

 俺が振り返って返事をすれば、安心したように桃尾が息をついた。顎の下にマスクを下ろして笑っている。いつもと違って少し控えめに見えるその笑みは、桃尾の美貌をさらに神聖なものに見せていた。

「あ、ありがと」
「……うん、いーえ」

 はにかむような笑顔が眩しい。
 そうそう、これだよ。俺はただ健全な青少年の笑顔が見たかっただけなんだよ。そう言うとなんだか俺が美青年が好きな変態みたいに思われるかもしれない。とはいえ痛々しいじゃん? 
 
 若者はこうあって欲しいんだよ。怪しい宗教になんて首を突っ込まず、勉強して酒飲んで、麻雀してアホやらかして、論文に苦しめられて、そうやって無意味な日々を過ごしてほしいんだ。神がいなくともその無意味な日々がいつか心の拠り所になる時が来るはずだ。

「ボク、如月くんのおかげで気づいたよ!」

 タッタッと軽い足取りで寄ってくると、桃尾は俺の両手を掬い取って、キラキラした目で俺を見つめた。律儀にちょっと膝を折ってくれてる。背、高いな。うわ、顔綺麗だな。なんて思わずぼぉっと見惚れてしまう。
 金色の瞳がきゅ、と細くなり、どろりと溶けた。


「神サマは自然に宿ってるんだね!」
「…………はい?」


 スローモーションのように首を傾げた。桃尾は顔をクシャっとさせて笑っている。ま、眩し……

 いや、ちょっと待って。本当になんなの、この子どんだけ神様に執着してるの。もう懲りていい時じゃない? そんだけ秒で改宗しまくってたら、宗教だとか神だとか、普通その概念からまず考えない? 存在を疑ったりしない?

「え、えっと、ん?」
「如月くん! ありがとう! ボクらの周りにある自然こそが神さまだったんだね! だから、ボクはあそこじゃ駄目だったんだよ。だってボクは楽園に行きたいんじゃない。神様に従いたいんだ、尽くしたいんだ! ボクの全てを捧げたいんだよ!」

 握られた手がぶんぶん振り回される。俺は頭を抱えたくなった。

 やっぱりこの男と関わりなど持たなければよかった。これはもう重症すぎるだろ。素人に手に負えるものではない。といっても、これは別に病的であるだけで、病気ではないのだ。俺にはどうもできん……

「如月くんはそれに気がついてたんだね」

 いやいやいや、何をどうとってそう思った? お天道様は見てるからね、的なやつ?

「だから、如月くんきっともっと上に行けると思う」

 上ってなに? 天? 召されるの、俺。ヤバイ、胃が痛くなってきた。

「ボク、如月くんの話をしておいたから。そしたら、大歓迎だってさ。よかったね」

 よくねぇ……これは完全にミスった。桃尾に握りしめられていた手を引き抜いて、腹をさする。背中を丸めた俺の背中を慌てて桃尾が撫でた。

「え、大丈夫……? お腹、痛い? 如月くんいつも胃薬飲んでるもんね。かわいそう……」

 桃尾が眉をひそめて本当に痛々しい顔をするもんだから、余計に胃がきゅっとなった。俺の腹に桃尾が手を当て、ゆっくりとのの字を描く。心臓は別の意味でバクバクしていたが、胃痛は次第に引いていった。

 手のひらの熱が胃痛を吸い取っていくようだ。もうさ、こういうのでいいじゃん。胃が痛すぎて神に祈ってしまう時はある。でも、そんなん願ってもなんともならない。胃痛が収まったら、ああ、神様ありがとうって思うし、治らなかったらふざけんな!って思う。桃尾がさすってくれて治ったら感謝する。でも、それだけで桃尾を神だとは思わない。敬って、何でもしたい尽くしたいなんて、ならないんだよ。自然がどうだ、神がどうだ、尽くしたレベルで階級が……とかじゃなくて、こういう些細な優しさにこそ目を向けるべきじゃない? その優しさはその人のものであって、そこに神のため〜とかそういう思いが入ってくれば、それはある意味邪念ではなかろうか。

「……」
「治った?」
「……よくなったよ。ありがとう」
「まだふらついてんね。仕事忙しいんだ?」
「や、まぁ、うん。今日は……」

 半休取って直帰だが、否。その言葉は口に出してはならない!

 俺は持ち前の特徴はないが親しみやすい顔のおかげか、これまでに何度も宗教勧誘に捕まってきた。まだ幼かった頃は、母に見つかり勝手に異宗教バトルを始めるものだから問題はなかった。学生時代にはあやしげなおじさん、綺麗なお姉さん、腰を曲げた婆さん、ことあるごとに絡まれてはスルーしてきた。

 だけどたまにはヤバイ人間がいるものだ。無理矢理車に乗せて攫って行こうとする大胆な奴もいる。何が、ちょっとお茶するだけだから! だよ。押し合い圧し合い、ここは新宿のラブホ街かっての。

 そして桃尾に関しては明らかに後者である。この子は確実にヤバイ方の人種にあたる。

「まだ、忙しいの?」
「あ、あーうん」
「いつならだいじょぶ?」
「えーっと……い、いつだろう……」

 だいじょぶって、何が? 俺ならいつでも大丈夫だよ。人間として最低限の暮らしができてる即ちダイジョブ! それよか、桃尾が大丈夫ではないんじゃないだろうか。つい一週間ほど前まではぶっ倒れるレベルだったのだ。

「今は?」
「今!?」
「大丈夫?」

 桃尾が首を傾げて俺の顔を覗き込んだ。曇りがちのアンバーは不思議な色を見せている。灰色とも琥珀色ともいえる絶妙な色に虹彩が光った。

 俺の腹にあてられたままだった桃尾の手の平から、じわ、と温もりを感じた。桃尾が、すぃ、と手を動かす。大丈夫って、腹か? 腹の調子なのか?

「今ね、今。うん大丈夫、大丈夫だよ。ちょっと昼に食べた天丼の油がまだ腹の中で格闘してるけど」
「ほんと!? やった、よかった! 脂っこいものばっか食べちゃダメだよ。ほら、あれ。葉っぱとか食べるといいよ」
「雑すぎんだろ」

 にこにこ笑った桃尾は再び俺の手を握りぶんぶん振り回した。桃尾に振り回されるままに足が絡まり、転ばないように歩く、歩く……あれ、どこに向かってるの? おじさん拉致するのやめて欲しいな……

「ちょ、っと、どこに行くのかなぁ?」

 俺を振り返ると、桃尾はむふふ、と笑った。楽しくてたまらないのを押さえるような幼げな表情だ。不覚にもかわいいな、なんて思ってしまうのは、俺がこいつの一回りも年上だからだろう。

「楽しいトコ!」

 怪しい。

 ドラッグでも吸いに行くみたいになってやがる。い、一回くらいなら、ついていっても大丈夫か? どんな勧誘だったとしても俺は絶対にハマらない。問題なのは、抜けさせてくれるかどうかだろう。

 そこのところカルト宗教百戦錬磨の桃尾くんはどうしているのだろう。ちら、と桃尾を窺うと目があった。にこ、と目だけでほほ笑まれる。ものすごいものを見てしまった気分だ。俺が女子高生だったら秒で抱かれてる。いや、抱いてくださいって言って振られてる。いや、振られないでほしい。

 桃尾が俺を引っ張ってきたのは、建物だけは通りすがりの女子高生が映え〜♡とか言ってそうな立派な会館だった。この手の建物はまず宗教を疑う。

 桃尾は老若男女問わずに目を向けられ、挨拶をされ、元気に返している。若い女の子なんかは特にあからさまだった。

 桃尾を見る目は、神について語っている時の桃尾のように熱っぽい。正直、この空間にいる若い子の大半は信仰なんてどうでもよくて、桃尾が目当てなんじゃないかと思った。桃尾ががっしりと俺の手を握っているもんだから、さっきから会場内にいる女の子たちからの視線が痛い。

「桃尾」
「あ、やっほ!」
「えっと、その人は……」
「新しい入会希望者だよ」

 ちげえよ! 勝手にそういうことにすんじゃねぇ! と思うが、ここまで来てしまった時点で俺の負けだ。桃尾に声をかけたのは桃尾と同年代くらいの男だった。俺をちらりと見て、会釈する。

「流石だな。また階級が上がるんじゃないの? まだ入って一週間なのに」

 フンッと男は桃尾を鼻で笑った。どうやらこの子は桃尾に少なからず嫉妬をしてるようだ。というかやっぱり勧誘ノルマだったり、そういうものはあるんだな。勧誘人数、もしくはお布施、寄付。そういうもので階級は簡単に上がっていく。所詮そんなものだ。俺の給食費さえ出さなくなった母を思い出し、慌てて頭を振った。これはわりと嫌な思い出だ。あまり思い出したくはない。

「うーん、でも声かけた子はみんな来てくれるよ」

 そりゃその顔だからな。俺は当たり前のことだと思ったが、桃尾につっかかる彼はそうは思わないらしい。舌打ちしそうになったのを我慢したような間があった。わなわなと唇を噛みしめ、耳を赤くすると、彼は桃尾の額にぶつかるんじゃないかというくらい顔を近づけた。熱いぜ。キッスできちゃうんじゃないの? 桃尾は男からもそういう対象で見られるのだろうか。

「お……まえっ」

 怒声をかみ殺したような感情的な囁き声だ。桃尾は動揺することなくきょとんとしている。

「ふ、不淫の掟を破ってないだろうなっ!?」
「破ってないよ、ボクをなんだと思ってるの」

 封印? なんだ? なんか儀式でもあるのか?

 部外者の俺には二人が何を話してるのかまったくわからない。しばらく二人は鼻がぶつかりそうなほどの距離で見つめ合いこそこそと話していたが、一歩も後退りをするでもない桃尾に彼が先に折れたらしい。キッと桃尾を睨みつけて男が去って行く。桃尾は俺の手を握ったままだった。

「なんか、よく言われるんだよね。ボクはなにもしてないのに」
「なんか封印してんの?」

 桃尾が俺を見下ろした。俺のかさついた唇と違い、女のように艶やかな唇がゆっくりと言葉を象った。

「不淫」
「フイン?」
「セックス」

 そ、そっちかぁ〜! うわぁ、そういう。そういう掟まであるのね? 絶対こいつそれ破ってんじゃないの? 少なくとも絶対に童貞ではない、確実に。しかし盲目なうちは信仰に忠実な人間だ。本人が破っていないというならば、改宗してからはヤってもないんだろう、たぶん。

「ボクは一緒に来て欲しいから、手を握って目を見て話すだけだよ」

 あ、ハイ。俺ですね。数十分前の俺だわ。自分がちょろすぎて心配になる。

「あぁ、ほら。これまでの話なんじゃないの?」
「そんなの……ボクはここに来て生まれ変わったんだから」

 間があった。間があったよ! 絶対ヤリチンだったんだろうな。そうだよな……嗚呼、ふしだらだ。




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