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この謎に大きな会館にはいくつかの講堂があり、集った人間はそのうちの一つへぞくぞくと入っていっていた。暗幕によって窓から差し込んでくる光は遮られている。前のスクリーンで何かを見るようだった。
カーテンの隙間からわずかに漏れる陽の光が埃を照らしている。それをぼんやりと眺めながら俺は現実逃避をしていた。平日の真昼間。仕事をサボっているわけではないのに、ものすごい罪悪感がある。俺はいったい何をしてるんだろう。
隣に座る桃尾はさっきからひっきりなしに話しかけてくる女の子たちを相手にしていた。桃尾の馬鹿なのか天才なのか、頭がおかしいのか宗教に熱心なのか、よくわからない哲学的な話が右から左へ流れていく。言っていることが過激なわりには、口調がのほほんとしているからか、穏やかな印象を受けてしまう。
「あ、もうすぐ始まるよ」
室内の電気が暗くなった。談笑が聞こえていた空間が、急にシンと静まり返った。
「えっと、あの、何が始まるの?」
「しっ」
ぱぁ、と目の前のスクリーンが明るくなる。
『大地に宿る魂が……』
アニメーションが流れ始めた。なんだか壮大な宇宙をバックに仰々しい男の声でナレーションが入る。平日の夕方に放送してるアニメと差し替えても遜色ないんじゃないの? はぁ、と欠伸を噛み殺していれば、隣からウッと声が聞こえた。横を見ると、桃尾が嗚咽を漏らしながら泣いている。
え、ウッソ。マジで?
久々に受けた衝撃に辺りを見回せば、集まった人の大半が桃尾と同じようにハンカチを目に当てて涙している。なんじゃらほい、とぽかーんとしている女の子たちはおそらく神の教えではなく桃尾を信仰してる子達だろう。
おいおいおいおい、怖えよ。マジかよ。というかなんで入信して間もない桃尾まで泣いてるんだ。ここ1ヶ月のあなた、キャラブレが激しすぎるけど大丈夫なの? ボクが神です、から始まってもうすでに4つめじゃないか。もはやほぼ毎週鞍替えしている。浮気も甚だしい。救えないのは桃尾自身がいつだって本気であるところだ。
啜り泣きはどんどん重なり次第に大きくなってゆく。終わる頃には皆スタンディングオベーション。うぉおお! とやかましい信者にならって、俺も立ち上がって取引先のおっさんへの恨みを叫んでおいた。スッキリした。
何十、いや何百の声が共鳴し合って会場がビリビリと振動する。すし詰めに入った人間の熱気でひどく汗をかいた。酸欠になりそうなくらい空気が薄い。スクリーンがプツリ、と途切れた時には、なぜだか非常に心が満たされたような奇妙な感覚に陥っていた。皆、やり切ったぜ! みたいな顔をしてはぁはぁ言ってる。ビデオ見てただけなんだけどね。興奮で頬を赤く染めた桃尾は、まるで性的な快感を得たように震えていた。
「ね! どうだった?」
会場から出て、外の空気を存分に吸っていれば桃尾にせっつかされる。俺はまだぼんやりとする頭で桃尾に顔を向けた。
「なんか……懐かしい気分になった」
盲信的な信者と沸き立つ会場。人間のパワーは凄まじいな、と思い出す。きっといつかの母も、その中にいた。俺もそんな場所へ連れて行かれた記憶がうっすらとあった。異質なものに放り投げられ狼狽えたことを覚えている。やっぱり、母の目に俺は映っていないのだ。
現実はそんなにも救えなかっただろうか。俺がいたから、母親はあんなにもカルトに救いを求めたのだろうか。あの人にとって、子どもの存在が大きな負荷になっていたのではないか。俺が、原因だった?じゃないのか?
「そっかぁ、そっかぁ〜! 連れてきてよかった!」
アバンギャルドな大男は隣でぴょんぴょん跳ねている。もう空は白み始めていた。近くの川が白い光を反射している。子どもが河川敷を笑いながら走っていった。
「ねぇ、如月くんは会ったことある?」
振り向いて桃尾の瞳が俺を捕らえた。眩しさに少し細められた目は、光の加減かいつもより明るかった。溶け出した蜂蜜みたいな瞳がじ、と見つめる。桃尾を見つめ返す俺が映っていた。映っているのに、どうも遠い。深淵を覗いているような気分になる。
「会うって、何に?」
「神様」
「……ないけど」
「そっか。神はいるよ」
「……」
瞳が揺れる。ほんの少し、桃尾の深いところが姿を見せたような気になった。
「ボク、一度だけ会ったことがあるんだよ」
桃尾の視線が橋の下で遊ぶ子どもへ向いた。遠くを見つめる横顔がオレンジ色に光る。陽が傾き始めたようだ。夕陽に照らされたピンクの髪が、雪原のように光った。
「暗いところに光がさして、大きな手が差し出される。あったかくて大きな体がボクを抱きしめてくれるんだ。もう大丈夫だよって頭を撫でて、そしてあったかいご飯をお腹いっぱいに食べさせてくれる。お風呂に入れてくれて、服まで着させてくれて、ふわふわの布団と柔らかいベッドに寝かせてくれた」
「……」
「覚えているよ。ボクを守ってくれたんだ。だからボクは探してる」
桃尾は伏目がちに視線をずらして俺を見た。ゆっくりと瞬きをする。吸い込まれるほど透き通った純粋な瞳から目を逸らせなくなった。
「ボクの神様は何処かへ行っちゃったから」
「……いつ? いつの話?」
「んー、わかんない! 忘れちゃった!」
にぱっと桃尾は無邪気に笑った。
「じゃね、如月くん! ボクの家、ここだから」
「え、」
気づけばとっくに橋も渡り終えていた。近くの大きな日本家屋を桃尾が指さす。いくつもの蔵が敷地内にあるのが見えた。巨大な門があるせいで、玄関すらも見えない。市内に一軒あるかないかの大きな家だった。
表札に書かれた名前は、桃尾ではなかった。
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