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 いつの間にか、足元はアスファルトに変わっていた。珂雁が立っているのは車のすぐ脇だ。助手席のドアを開け、運転席に乗り込む。俺は動けなかった。

 もう少し、知りたかった。

 何を知りたいというのか。俺の足りない頭ではうまく言葉にすることもできない。いくつになっても、自分の気持ちさえ表現することができない。そのことに悔しさとやるせなさを覚える。

 きっともう今日はわがままを聞いてもらえない。そんな気がした。その証拠に俺が乗り込むが否や、珂雁は車を出した。車内の沈黙はどこか張り詰めていた。

「ねぇ……俺、もう大丈夫だよ」

 窓の外で景色が流れていく。荒くならされた地面に車が揺れ、胃に振動が伝わる。慣れないその感覚が気持ち悪い。

「ん?」

 俺の呟きを拾った珂雁が視線をまっすぐにしたまま首を揺らす。

「もう、みんな俺のことなんて忘れてるよ」

 お荷物なんかじゃない。厄介者なんかじゃない。俺だって。

「もう外に出ても大丈夫だよ」

 いつまでも俺を隠しておかなくていいよ。俺のことを足枷だと思わなくていいよ。俺だって珂雁の力になれる。家の中に閉じこもって漫画を読んで、ドラマを見て、ゲームばっかして、それで俺は珂雁の役に立ってる? そんなわけないじゃん。

 体を押し付けてくるシートベルトが気になってもぞりと動いた。珂雁が横目に俺を見る。

「一人じゃ危ない」

 鋭く吐き捨てるように、そう言った。

「……に、」

 逃げないよ、と言いそうになって思わず口を閉じる。そんなの俺が珂雁から逃げたいみたいじゃん。違う、そうじゃなくて。口を開いたが、言葉になる前に珂雁の声が遮った。

「今日はたまたま人が少なかった。お前慣れてないだろ。本当はもっと人が多くて」
「外に出ないと慣れることもできない!」

 急な焦りを感じた俺は自分でもびっくりするほどの大声を出していた。珂雁の言葉を遮ったのは俺だったのに、珂雁はそれきり黙ってしまった。
待っているのだ。俺の言葉が出てくるのを珂雁はいつでも待っていてくれる。

 いつも、そうだ。珂雁はいつも俺に譲る。対応だけは子どもの頃と変わらない。優しさだって変わらない。

 変わっていったのは俺の体だけだ。体だけはこんなにでかくなったのに、俺はあの子どもと同じくらいの物事しかわからない。
 あれは何? これは何? モノも感情も常識も知らない。

 ドリンクホルダーに入れてあったミネラルウォーターを一気飲みした。さっき珂雁が口をつけていたものだ。ちょっとドキドキした。空になったペットボトルはやけに柔らかくてすぐにべこべこに凹んでしまう。

「止めて」

 今日の俺は少し変だ。潰れたペットボトルを握りしめて、声を絞り出した。

「どうした?」
「ゴミ、捨ててくる。新しい飲み物買ってくる」
「……」
「どこでもいいよ」

 ルールなんて知らないから。標札の意味なんてこれっぽっちもわからない。停まっていいところと駄目なところがあるんでしょ? ポイ捨てはしちゃ駄目なんでしょ?

 珂雁が車を停めたのは駅のロータリーから少し離れた場所だった。ショッピングモールの裏側になっているらしい。自転車がずらりと並んでいる。

 そこの一角に自販機とゴミ箱を見つけて、俺はそろそろと車から降りた。
 ゴミ箱には穴が二つある。どちらに捨てればいいのかわからなくて立ち止まって悩んでしまった。諦めて目を閉じて触れたほうの穴にペットボトルを捨てておく。自販機で飲み物を買おうとしたが、今度はお金の投入口が見つからない。

 なんで、なんで、どうしてこんなに分からないことばかりなんだ。どうして俺はこんなことも知らないの? もう嫌だ。

 アスファルトからは熱された空気が立ちあがってくるのを感じた。背後の道路で車が走り抜けていく音が聞こえてくる。こんなに近くで聞いたのはいつぶりだろう。目の前で自販機は光っている。ボタンが赤く、青く点滅した。どこからか人の声が聞こえてくる。何重にも音が重なる。ざわざわと、俺を急かすようにせめぎ合っていた。

 汗で濡れた手のひらから小銭が滑り落ちていく。

「あっ……」

 どうしよう。どこに落ちちゃったんだろう。慌てて地面に這いつくばっていたら、どこからか歓声が聞こえてきた。人がいっぱいいる音だ。向こうで何をやっているんだろう。地面についていた膝を上げて立ち上がる。小銭は見つからない。

 ちょっとだけ、ちょっと覗くだけ。

 ショッピングモールの裏手は日陰になっていて、涼しい風が流れていた。大きなショッピングモールの建物の影でぱっきりと日向との境ができている。明るい陽射しがやっぱり眩しい。

 公園で遊びすぎたからか、足が重い。こんなに全身がだるいのは初めてだ。だけど、日向に向かって進む足は止まらない。

 ちら、と影から覗くと、なにやらマジックショーのようなものをやっていたらしかった。子どもがいっぱい、大人もいっぱい。

「っ……」

 人がいっぱいいる。うごめいて、歓声を上げて、いくつもの言葉が重なる。

「は……」

 目が回ってきた。息が上手く吸い込めない。動悸がする。心臓が揺れる度、体がどくん、と震えた。足が震えて立っていられなくなった。

 人の声。何を言っているのかわからない。ざわめきがこんなにうるさいものだなんて知らなかった。誰も俺を見ていない。だというのに、重なり合って異常な周波となった大衆の声に押しつぶされそうになる。

「は、っ……」

 ざわざわした音がどんどん脳を侵食していく。うるさい。頭が痛い。焦点が合わない。ものが二重に見えてくる。
 ぶれた視界で真っ黒な瞳が俺を見ていた。

「…………」

 二重瞼のぱっちりとした大きな目だ。青いドラゴンがプリントされたキャップを被って、ヒーローもののフィギュアを小さな手にぎゅっと握りしめている。俺と同じくらい、俺が珂雁と出会った時と同じくらいの年の男の子だった。

「……」

 やっぱり珂雁はこんな子どもが好きなんだろう。いつも家に連れてくる子どもだってこのくらいの年だ。
 子どもはじっと俺を見つめている。にこりともしないその姿は奇妙だった。ただじっと、俺を見上げる。気味が悪い。

 でも珂雁は好きなんだよね。

 この子を連れて行ったら喜んでくれる? 俺だって役に立てる。証明しなきゃ。

「……ねぇ、それ……好きなの?」

 無表情の子どもよりずっと、俺の震えた声の方が不気味だった。子どもの手を指さすと、子どもは手元のフィギュアに視線を落とした。確認するようにもう一度俺を見上げると、こくりと頷く。

「お、いでよ。いぃ、いっぱい、あ、るよ」
「……」
「か、怪獣のもっ、ある、から」
「……」

 ただでさえ大きい子どもの瞳がさらに大きく見開かれた。それは期待によるものなのか、疑心なのか。一歩、こちらへ足を踏み出す。もっと来てよ。早く。早く。俺は早く逃げたい。ここから逃げたい。だから早く。

「見に来る……? あ、あげるよ……」

 俺の方に寄ってきた子どもの手を取る。その腐りかけた果物みたいな感覚に思わず悪寒が走った。我慢しろ。この子を車に連れていけばいい。

 がたがた震える手と足のせいで思ったように歩けない。なんだか吐き気がこみ上げてくる。背後からは人の作り出すざわめきが責め立てるように張り付いていた。

「何してんの」
「っ!」

 ふいに声が聞こえて、縋り付くように顔を上げた。珂雁が呆れたように立っている。思わずへたりこんだ俺のもとにしゃがみこんで顔を覗かれた。

「珂雁……気持ち悪い、ぐるぐるする……なんか、ぇってする」
「いきなりこんな人混みに行くからだよ。ほら、その子の手を離して。車で休もう。立てる?」
「……」

 珂雁は俺に手を伸ばした。触れる気なんてないくせに。珂雁の手を取る代わりに握っていた子どもの腕に力を込めた。歓声が聞こえてくる。いったい何が楽しい? 俺は嫌なことの一つも忘れられないよ。

「珂雁……」
「ああ、ほら。手を離してあげて。痛いって言ってるよ」

 幼い子どもがしゃくりあげる声が聞こえてくる。うるさいな。なんで泣くんだよ、俺、何もしてないじゃん。

 俺だって泣いてる。泣いていると思う。目は乾いていたから、きっとどこか別の場所で涙が流れていたのだと思う。

 心臓の音が異様に速い気がする。なぜか耳元で鼓動の音がしてくらりとした。視界が白く明滅し、ざわめきはまるで水中から聞いているようにくぐもった。

「うおっ……夕陽?」

 視界が黒でいっぱいになると同時に、ふわりと全身が珂雁の匂いに包まれた。珍しく焦ったような声を上げている。いつも落ち着いて静かな珂雁にしてはずいぶん珍しい。頭が痛くて、前が見えなくて、耳鳴りがする。

 次第に音が遠くなる中で、珂雁が舌打ちをしたのを確かに聞いた。あーあ、やっちゃった。と、そう思った。




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