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 大きな公園は平日だからか大した人手はなかった。周りには何もないし、気軽に遊びに行くには立地があまりよくないのかもしれない。

 芝生で見晴らしがよく、大きな木が芝生の周りをぐるりと囲んでいる。桜の樹らしく、春にはこの公園も賑わっているそうだが、今はただ緑色の葉をつけているだけだった。

「桜が見たかった」
「あの時期は人が多い」
「別にちょっと見れたらそれでいいのに」
「……来年は行こうか」

 拗ねたように言えば、小さく珂雁が答えた。こんな約束、覚えていてくれるんだろうか。
 どうせ俺は自分の意思じゃ外に出られない。俺はいつだって珂雁に何がしたい、アレが欲しいって言わなければならないのだ。

 芝生の上に寝転がった。ベランダなんかと違って、空が高くて風通しがよくて、足を伸ばすことも手を伸ばすこともできる。どこまででもころころと転がっていけた。

 芝生の上には俺と珂雁以外の人影はなかった。時たま、桜の樹の向こう側で犬の散歩をしている人が通り過ぎていく影が見える。俺は調子に乗って芝生の上を走ったり転んだり、犬みたいに遊んでいた。

 胸が苦しい。寝転がった自分の胸が激しく上下している。先日から止まらなかった咳は薬のおかげなのか、今日は収まっていた。

 荒い呼吸のまま大の字になって青空を眺めていれば、ふいに頭上の光が遮られた。上から珂雁が俺を見下ろしている。日の光の下で、珂雁の肌の白さは一層強調されていた。肩にかかる髪が落ちて、風で巻き上げられる。相変わらずどこから見ても整った顔立ちだ。

「……喉乾いた。水ちょうだい」
「水? もうなくなっちゃったよ。あっちの自販機まで買ってくる」
「うん」

 珂雁がその場からいなくなったのは一瞬のはずだった。ここからだって、小さく自販機は見える。
 だけど、珂雁が桜の大木に隠れたと同時に、幼い男の子を連れた家族連れが芝生の上にやってきた。微かに聞こえてきた話声に顔を上げ、3人の人影を認識する。

 俺は上半身を起こしたまま動けなくなった。小さな男の子が父親と母親に挟まれ、手を繋いでいる。
 人見知りをしないらしいその子どもは俺を見るがいなや、父親の手を離してきゃっきゃと笑いながら俺に手を振った。ぎこちない動きで首を動かせば、会釈をしたと思われたらしい。楽しそうな一家は俺に友好的な笑みを見せた。

 何もおかしいところはない? 俺は、どう見られている?

 珂雁の部屋で見た、俺を探すチラシが脳裏によぎった。心配ない。分かるはずがない。ずいぶん前のことなんだ。今、目の前でこけている子どもと同じくらい小さな時だ。

 黄ばんでいたチラシ。最近のものはまだ紙の白さを保っていたが、使われている写真は変わらなかった。昔の俺など、もう跡形もないはずだ。

 走り回る子どもに目が行ってしまう。ボールを取り出して遊ぶ子どもの脇で、父親と母親は芝生の一角にレジャーシートをひき始めた。若い夫婦だ。ひょっとしたら、俺と同い年くらいの。

「……っ!」

 ぽよん、とした不思議な衝撃が腕に走る。びっくりして見てみれば、子どもが投げて遊んでいたボールが当たって、子どものもとに跳ね返っていくところだった。

 えへへ、と邪気のない笑顔が俺に向く。なぜだか、どくどくと心臓の揺れを感じた。

「……こんにちは」

 自分の声とは思えないくらい、掠れて震えている。芝生の上にだらんと垂れた手ががたがた震えて、周辺の葉を揺らしていた。

「こんにちは!」

 何の不信感もないころころとした可愛らしい声が帰ってくる。ふ、と小学校前の文房具屋が頭に浮かんだ。夕方だった。日は翳って肌寒い風が吹いていた。学童で普段は集団下校をするところ、俺と同じ通学路の同級生も上級生も、その日はたまたまいなかった。横断歩道まで一緒に帰ろうね、ともう顔も思い出せない指導員が言ったのを覚えている。指導員に手を振って横断歩道を渡った先の文房具屋に、綺麗な青年が蹲っていた。

「お兄ちゃん、お腹痛いの?」
「…………」

 両手でピンクのボールを抱えた少年が首を傾げる。

「……ううん」
「でも、さっきからずっと座ってるよ」
「足が震えちゃって」
「立てないの?」
「うん」

 ボールを持ったまま、小さな男の子がぱたぱたと近づいてきた。まだ覚束ない足取りは僅かな段差でもこけてしまいそうで、安心して見ていることができなかった。伸ばした足元のすぐそこまで来た子どもがちょこん、と俺の前に屈みこむ。

「手伝ってあげようか?」
「うーん、どうしよう」

 珂雁は? まだ? まだ帰ってこないの?

「お、お兄ちゃん……重いから」
「えー!」

 何が楽しくてそんなに笑ってるんだよ。宇宙人かよ。意味わかんねえ。

 きゃらきゃらと楽しそうに笑う子どもの腕の中でボールが光を反射している。屈んでいる足はむちっとしていて、つるつるしていて、見ていて動悸がした。ボールを掴む小さな手は、俺の4分の一くらいの大きさで、その形すらもまったく違う。ぷっくりとして柔らかそうな手足。落っこちそうなほっぺた。

 俺とこいつはまったく別の生き物だ。

 ふいに、珂雁が俺に触れなくなった理由が分かった気がした。俺は15年かけて別の生き物に成り代わったのだ。

「…………ねぇ、」

 脳天が焦げそうだ。直射日光が眩しくて瞬きをする。緑は目に良いと聞くけれど、あまりにも鮮やかな芝生の緑は逆に目を刺すように刺激した。脳みそが揺れているような感覚がする。遠くでレジャーシートをひいている夫婦の声が微かに聞こえた。

「……触っても、いい?」
「……?」

 きょとん、と首を傾げた男の子がおずおずとボールを差し出した。
 それじゃない。おまえの体だ。

「手伝って、ほしいんだけど」

 かさついて聞き取りづらい声だった。それでも意味を理解したらしい。大切なものを扱うようにボールを脇にそぉっと置くと、立ち上がって小さな手を俺に伸ばした。俺の右肘あたりを両手で挟む。触れられた箇所から全身へ、瞬時に鳥肌が広がっていった。

 子どもは一生懸命俺の肘を掴もうとしてくるが、その小さな手では大人の腕を掴みきることはできない。肌に触れる子どもの手はほんのりと湿っていて、手のひらから指の先まで力が入っていて、まるで吸盤みたいだった。手だけが別の生命体みたい。

「っ……っ……」

 べったりと、子どもの汗が張り付いてくる。熱いのに熱とは真逆の冷たさを感じる気味の悪い感覚が腕を掴んで離さない。

 頑張って俺を立ち上がらせようと、引っ張ってくる子どもの腕に左手を伸ばす。人間の皮膚とは考えられないくらい柔らかいものに指先が触れ、つ、と飲み込まれていった。

 息を飲んだ。目が回る。吐き気のようなものがこみ上げてくるのを感じた。

 細く柔らかい子どもの腕を握ろうとする。芝生を踏みしめる音がすぐそこで鳴っていることに俺は気づかなかった。

「……夕陽」
「っ」

 パッと、子どもの手を離す。見上げたら珂雁が後ろに立っていた。今日は朝からずっと柔らかい表情を見せていたのに、人の温かみが抜け落ちたような無表情になっていた。

「帰ろう」

 風が吹き抜けるようなささやかな声だ。人を拐わすような美しい声に、子どもが黒ずくめの珂雁を見上げた。嬉しそうに笑顔を浮かべて、珂雁の長い足に抱きつく。珂雁はなんてことないように、節ばった指でふわふわした子どもの髪をすいて頭を撫でた。

 きゃっきゃと笑う。うるさい黙れ。やめろ、触るな。離れろ。

 さっきまで触れていた妙に柔らかくて頼りない肌の感触が消えてくれない。鳥肌が引いたと思ったらまた全身にサァっと走って、まるで風邪をひいた時みたいに寒気を感じた。

「……まだ……」
「帰ろう」
「……でも」
「水。買ってきたよ」
「……あ、りがと」
「立って」

 立てないよ。怖いよ。俺も撫でてよ。手を握って。どこに向かえばいいの? ここはどこなの? 帰る場所はどこ?

 人間とは思えない小さな手が再び俺の腕を引っ張った。触られた瞬間、体の内側からぞわりと震えた。はくはくと口を動かす。珂雁に助けを求めそうになったが、顔を動かすことすらできなくて、結局目線の高さが同じだった子どもと目を合わせるほかなかった。

「お兄ちゃんがんばれ!」
「……」

 うるさい。はやくどけ。触るな。

 弾力のある皮膚が押し付けられた途端、反射的に子どもから逃げるように立ちあがっていた。思わず子どもを蹴飛ばしそうになり、咄嗟に珂雁が子どもを庇う。何の違和感もない仕草で、それはただ子どもとじゃれ合っているだけのように見えた。

 子どもの手を握って笑いかけ、振り向きざまに流し目で俺を見据える。頭の中をじっと見られているようで怖かった。

 自分はなにかとんでもないことをしてしまったように思えた。それは俺の知らない世間の常識であったり、俺と珂雁の暗黙の了解に触れることだったかもしれない。

 珂雁の羽織りが靡いて俺の体に当たる。溺れた者が藁を掴むように、俺はその羽織りの裾を掴んだ。ちら、と視線だけで俺の指先を見やると、珂雁は何の迷いもなく駐車場へと歩きだした。
 後ろでボールが跳ねる音がする。子どもが芝生の上を駆ける足音がした。

 足を動かすたび、視界は動く、変わる。目まぐるしさについていけず、足元に視線を落とした。モザイク模様のような青い芝生の上を、真っ赤な靴下を履いた足が忙しなく動いている。葉っぱがいっぱい、ぐるぐる回っている。平面を歩いている気がしなかった。

「ほら、言ったじゃない」

 草を踏み締める音に混ざって、どこからか声が聞こえてくる。それは頭の中でエコーがかかったように何度も何度も脳内で反響した。

「もう珂雁は君のことなんて興味がない、ただのお荷物なんだって」
「……うるさい、うるさい」

 ざくざく、と音が響く。こんなに嫌味ったらしい声が聞こえていても、珂雁は知らんふりだった。聞こえていないのだろうか。足元の草が踏みつけられながらざわざわと震える。

「困っているんだよ。世間知らずで厄介者の君を捨てることもできないのだから」
「うるさい……うるさい」

 頭上で飛行機がよぎる音がした。日差しが熱い。影が伸びる。指先で掴んでいだ珂雁のコートの感触がなくなっていることに気がついた。

 はっと顔を上げる。

 数歩先で、珂雁が俺を振り返っていた。俺のために買ってきてくれたミネラルウォーターを飲んでいる。飲み口から口を離すと、息を溢すようにして笑った。

「さ、帰ろう」


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