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「案外早かったですね」
「……」
「うわっ、ちょっとポイ捨ては駄目でしょ! まったく君のような人間がいるから世界のゴミ問題が加速するんだよ」
「何の話?」

 ポイ捨てって何?
 ベランダに出るが否や、どこからともなく声がする。見下ろせば、まあ何もいない。小さな雑草が風に揺れているくらいだ。

 あー、そういやいたな。なんか、葉っぱがしゃべってた。

 気持ち悪かったから、俺のザーメンでべったべたになったティッシュを投げつけておいた。パンツも汚れてるし、いっそ脱いじゃいたい。なんかトイレにも行きたいし。流石にベランダで下半身出すのはまずいかな。

「わっ、わわわっ、わーっちょ、ちょっと何するつもりだよ!?」
「えーおしっこ」
「中でしろよ! なんでぼくにかけようとするんだよ!」
「だって、そこに葉っぱがあったから」
「君の常識原始的すぎるでしょ。それいつの原始人の本能?」

 葉っぱが喋るのって常識だっけ? 喋る葉っぱって実は外には普通に生息しているものなのだろうか。

 後で調べておこう。今は家の中に戻れない。なんだか尿意もどこかへ行ってしまった。もういいや。

 ごろんとベランダに横になる。今の時間は日が当たって気持ちよかった。ずいぶん狭いけど、きっと日光浴ってこんな感じ。いつか海でもやってみたい。芝生の上でもいい。

「それで、君は何を叶えて欲しいんだい?」
「うるさい、消えろ」
「えぇ〜……よく考えてよ。ぼくは力だ。君にとって必要なものだろう?」

 俺に必要なもの? そんなの珂雁がいればどうだっていい。
 だいたいこんな小さな葉っぱが何を偉そうに力、だなんて言うんだ。力? それがあって何ができるの?

「君はいったいいつまでここにいるんだい?」
「ずーっと」
「ずっと?」
「ずっと。もう15年経った」
「もう15年経っても、ずっと?」
「ずっと」
「そんなに経ったら珂雁は死んでしまうよ」

 葉っぱが生えている方に手を伸ばし、引っこ抜こうとした。やっぱり抜けなかった。

「珂雁はそんな年寄りじゃない」
「どうだろうね? 君は珂雁のことを何も知らないじゃないか」

 知ってるよ。
 とても繊細で綺麗な顔をしている。俺は珂雁に初めて話しかけられたとき、花の妖精だと思った。我ながら、馬鹿っぽい。
 それにとても声が綺麗だ。ささやかで、夜風が葉を揺らすような。名前までもが綺麗。珂雁の名字は星河っていう。星の河でホシカワ。ね、素敵でしょ。
 朝は6時に起きる。夜は遅い。日中はふらりとどこかへ行ってしまう。たまに友達をここへ連れてくる。紅茶を淹れるのがうまい。コーヒーはあまり飲まない。朝はパンが好き。
 そして、子どもが大好き。

「珂雁が死んでも、君はずっとずっとここにいるのかい?」
「……」
「珂雁がある日急に帰ってこなくなったら?」
 珂雁が君を置いてどこかへ行ったら?
 珂雁が何も食べさせてくれなくなったら?
 もうとっくに君のことなんてどうでもいいのさ。最後に君に触れたのはいつ? どうして君を外に連れ出してくれないの? 君はそれを愛だと思う?
 大人になった君なんて、珂雁にとっては処理に困った粗大ゴミのようなものさ。
 君はもう、用済みなんだよ。




「夕陽」

 冷たい風が頬を撫でた。風が通り抜ける音なのか、珂雁の声なのか、はっきりとしない。
 うつらうつらとしている。夢見がいい。
 名前を聞かれた。小学校の前、小さな文具店の軒先で座り込んでいた青年だ。うずくまっているように見えて、声をかけた。

「××夕陽」

 どうして自慢げに名前を言ったのかわからない。だけど青年はにっこりと笑った。桜の妖精みたいだった。そんな風に笑うから、俺はきっと正しい受け答えをしたのだと思った。

 うずくまる青年に、先生を呼ぼうかと言った。救急車を呼ぼうか、と聞いた。青年は首を横に振って頷かなかった。

「星河だよ。星河珂雁」

 さ、と手を取られる。触れた瞬間、花びらになって散っていってしまいそうだった。

「呼んでみて、夕陽。俺は珂雁」

 世界にぱっと色がついたようだった。とてつもなく綺麗な宝石を手に入れたみたいで、湧き上がる感情は8歳の俺にはどう表現したらいいのかわからなかった。珂雁、珂雁……

「夕陽」

 うっすらと開いた視界に、珂雁の顔が映り込む。あれ、と思う。つい今の今まで見ていた珂雁よりも、少し顔色が暗かった。

「……珂雁」
「どこで寝てるんだ、お前」
「……葉っぱがしゃべってて」
「葉っぱ?」
「なんでも叶えてくれるって……すげーやな奴で」
「夕陽」
「ウザかったから、後で抜いといて」
「夢だよ、夢。風邪を引くよ、中に入りなさい」

 ベランダの戸がからからと音を立てる。起き上がったら背中が痛かった。空を見上げると、陽は落ちてとっくに薄藍色に霞んでいる。ベランダのコンクリートもとうに冷たくなっていた。

「今日、なに?」
「グラタン」

 起き上がった俺を見て、珂雁が部屋の中へ戻っていく。手ぐらい貸してくれてもいいじゃん。全身が痛いや。
 暖かい季節だというのにグラタンかぁ。子どもが好きそうなメニューだね。

 俺はもうとっくに大人になっているけれど。



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