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 ほんのちょっと力を入れたら玄関の扉なんて簡単に開くはずだった。たとえ外から鍵をかけられていても内側からは開けられるし、実際問題俺はこの15年閉じ込められていたわけではない。

 しばらく玄関の鍵をガチャガチャと開けたり閉めたりして時間を持て余していた。鍵のつまみが横に、縦に、横に、縦に。

 今なら開く。ドアノブを持って、少し力を入れたら。

「……」

 足が震え始めた。珂雁がいない。俺の隣にいない。どこかへ行ってしまった。どこに行った? いつ帰ってくる?
 ……本当に帰ってくる?

 外に出たい。空気を吸いたい。空の下に立ちたい。吹き抜ける風を全身に感じたい。どこまでも歩いてみたい。走り回って転げまわりたい。

 珂雁がいない。どうしよう。どうしよう。

 ドアノブに触れる手が激しく震えていた。ふいに物音が聞こえ、息をつめてドアスコープに目を近づけた。鬼から隠れているみたいに、心臓が早鐘を打つ。

 正面の部屋の扉が開いたところだった。酸素チューブを鼻につけた爺さんが、ボンベカーを引きながら出てくる。覚束ない足取りで、背中を丸めながらどうにか鍵を閉めていた。がら、がら、とボンベカーを引きながらとぺたぺたと歩いてくる。

「は、は……はぁ、はっ」

 人がすぐそこにまで迫ってくる。ドアを一枚隔てただけのほんのすぐ先にいる。
 見られる。
 直感的にそう思った。

 瞬間、弾け飛んだように俺は室内へ逃げていた。

 珂雁の部屋に飛び込んで、ベッドに潜り込み頭から布団を被る。馬鹿みたいに体が震えて、呼吸が浅くなり苦しかった。心臓が異様に速く音を立てている。体中に嫌な汗が浮かんで、吐き気がした。
どうしてこんなことになっているのか分からない。

 外に出ようとした。そしたら隣人が出てきた。
 それだけじゃないか。
 どうして俺はこんなになって怯えているんだ。

「エ゛ッ、は……は……っ、んっ」

 唾液だけが大量に湧いてきては、珂雁のベッドにぽたぽたと垂れていく。朝食がいつも軽いから、吐けるものもないのだろう。今朝だって6枚切りのトースト1枚に、蜂蜜をかけたヨーグルト、珂雁の入れた紅茶。それだけだ。
 ひょっとしてお腹が空いているのだろうか。あまりの空腹に勘違いをして気持ち悪くなっているのだろうか。

「はぁっ……はー……ッ」

 珂雁の部屋は暗かった。あちこちから珂雁の匂いがする。シーツからも、布団からも、部屋の空気だって。

 徐々に心臓が別の意味で早くなっていくのが分かった。俺は普段、珂雁の部屋には入らない。珂雁が嫌がるのだ。目に見えて嫌がるわけではなくて、やんわりと、ああ嫌なんだなっていうのが分かる。

 だけど今、俺は珂雁の部屋にいる。珂雁が寝て、起きたベッドの上にいる。
 じん、と熱を感じた。下半身を見やれば、硬くなったものがはっきりとズボンを押し上げていた。

「……はっ、ははっ」

 ここでやったら流石に怒るかな。
 おそるおそる、手を伸ばした。やっぱりちょっとだけ罪悪感があった。

 懐かしい匂いがする。柔らかい珂雁のベッドの感覚も久々だ。布団を手繰り寄せ、思い切り息を吸う。珂雁に包まれたみたいに気持ちいい。

 昔はどうしていたっけ。俺一人が寝転んだらもう誰も入る隙なんてなさそうなベッドだ。もっとずっと大きなものだと思っていたけれど。改めて考えると、子ども一人がぎりぎり入れるくらいしか余裕がない。

 いや、子どもだったから、ここにいれたんだ。

 いつだったか忘れたけど、急激に背が伸び始めた時期がある。そのくらいの頃から、珂雁は俺と同じベッドで寝なくなった。

「んっ……」

 同じ時期だ。珂雁は俺に触れなくなった。

「……は、ぁ」

 でもずっと、覚えている。体をまさぐる手の熱も、動きも、全部。
 邪魔だったから、ズボンと下着を下ろした。腿を撫でてみれば、サァっとそこだけ電流が流れたみたいにささやかな刺激が走る。

 やんわりと、肌に触れながら、刺激を期待する体が敏感になっていくのを感じる。指先を鈴口に触れさせて離せば、透明な糸を引くのが見えた。

 なんだか面白くなってしまって、しばらくくちゅくちゅと音を立てながら先走りが漏れている様を眺めては遊んでいた。

 やっぱり汚しちゃまずいよな。でも、どうせバレる気がする。
 なら、よくない? 何やってもいいじゃん。

 先走りを全体に塗り込むようにしながら弄っていれば、どこもかしこもぬるぬるになっている。は、と吐き出された息が熱かった。

「ぁ、あ……ん」

 珂雁の匂いに囲まれているからか。珂雁のベッドの上だからか。一人なのに、本当に珂雁に触れられているように思えてきてしまった。

 なんか、今日ならイけそうな気がする。
 布団を掴んでいた手を離し、口の中に指を入れる。十分に唾液を絡ませた指を、後孔に持っていった。

「っ、あっ……ふ、ぅ」

 つぷ、と入ってくる感覚はあるが、まだ異物感が強い。奥に進めるのが怖くて、中で指を曲げてまずは慣らそうとした。

「んっ……んぅ、っは」

 よくわかんないや。でも気持ちいい? うん、なんかそんな気がする。

「ふっ……ん」

 顔をシーツに押し付ける。珂雁の匂いを吸い込みながら、後に入れた指をゆっくりと動かす。それと同時に前を触る手もゆるく動かした。

「ぁ……っ、」

 どっちがいいのか分からない。目を閉じれば余計にすぐそこに珂雁がいるように思えてしまって、腰が自然と揺れてしまう。そのせいか、さっきまでより奥に入った指がどこかに当たった。ずん、と不思議な衝撃のようなものを感じて、下腹部に熱が集まるような感覚を覚えた。

「ぁ、あっ……」

 ぐ、と力を入れて押すたびに、じわじわと大きくなっていく。ヤバイと思った。大きな波が来る。

「あっ、あ、ん……ふぁ、んっ、あぁ……っ」

 どうしよ。止まんない。
 前を弄る手も、後を弄る手も、今はもう自分の意思で止めることなんてできなくてぐちゃぐちゃと激しく音を立てている。

「きもち、い……っ! んぁ、ふ、ぁ……珂雁の、ベッド……よごしちゃ、」

 でも、いいよね、こんくらい。一緒に住んでるんだから、いいよね。
 それとも怒る? 大人の俺が珂雁のベッド汚して。俺の汗だとか精液だとか、体液まみれになったベッドを今日、珂雁は使うのか。

「ん、ふぁ、ぁ……っ!」

 もう、いいや。考えるのやめよ。気持ちいいからいいや。前も後ろも、もうわけわかんない。
 何かが腹の底から上がってくる感覚がある。それに応じるみたいに与える刺激も激しさを増して。

「んっ、ぅ」

 腰がびくっと跳ね、シーツの上に白濁が飛び散っていった。ただ出して終わるだけだったいつもと違って、全身を包む甘い珂雁の匂いに絶頂の感覚が止まらない。力が入った腹がひくひくと痙攣する。何の刺激を与えているわけでもないのに、ずっと止まらない快感に後孔が指をぎゅうぎゅうに締め付けた。

「っ……」

 どうにか指を引き抜くと、その刺激でまたひくっと腰が跳ねてじんわりと快感が広がっていった。

「っは……は、ぁ」

 力の抜けた体がベッドに沈み込んでいく。いまだに匂う珂雁の匂いに俺の汗と、妙に生々しい匂いが混ざってなんとも言えない空気になっていた。なにこれ。セックスでもした後みたいじゃん。

 珂雁はよく子どもを連れてくる。大抵は触ったり射精させたり、たまに後ろを開発したりしているけれど、その時はこんな匂いはしない。

 そりゃそうだ。だって、相手はまだ精通もしていないような子どもなのだから。

 あーあ。どうしよ。絶対バレるよ。どんな顔されるかな。

 一先ず、ベッドに散った精液を拭うことにした。どうしようもないくらい、べったりとついてしまっている。シーツの色も俺の体液で変わってしまっていた。

 サイドボードのティッシュに手を伸ばす。面倒がって起き上がらなかったから、何も見ずに伸ばした手はずいぶん見当違いのものに触れたようだった。

 バタン、と何かが倒れる音がする。ヤベ、と慌てて起き上がったら、今度はベッドの頭上に取り付けられていた棚に頭をぶつけてしまった。

「いって……」

 ばさ、と何かが頭の上に落ちてきた。古びたノートだった。

 黄ばんだ新聞の切り抜きが貼り付けてある。他にもウェブサイトを印刷してきたものやチラシが貼ってあった。俺以外にこんなことしてる人間がいたんだな。何が楽しいんだろう。
 なんとなく、その見覚えのある写真をじっと見つめる。

「あ」

 俺だ。
 いつの写真だろ。写真の中の俺は紅白帽をかぶって、満面の笑みでカメラに向かってピースをしている。
 まだ、小学校に通っていた頃の写真らしい。珂雁と一緒になる前だ。どうしてこんなものを珂雁が持っているのだろう。

 ノートに手を伸ばそうとして、自分の手が濡れていることを思い出す。慌ててティッシュで拭き、シーツに飛んだ精液もいい加減に拭っておいた。

『行方不明』
『捜しています』
『どんな情報でも構いません』

 切羽詰まった文字が目立つ。写真に写っているのは俺のはずなのに、なんだか別の誰かを見ているようだった。俺のことを探している誰かがいるという実感がわかない。

「……名前」

 どの記事も、なぜか名前の部分が塗りつぶされている。俺は記事を透かしてみたり努力をしてみたけれど、塗りつぶされた文字を読むことはできなかった。

「俺の名字、なんだっけ……」

 夕陽、と珂雁の声が脳理に浮かぶ。この15年間、俺の名前を呼ぶのは珂雁だけだった。
 珂雁は俺のことを必ず名前で呼ぶ。あだ名をつけたり、略したりせず、絶対に夕陽、と呼ぶ。そのせいで、気が付いた時には俺の頭からは自分の名字がすっぽりと抜けていた。

 スクラップブックはそこそこのページが埋まっていた。中身は全部、俺に関する記事。

 珂雁はよく子どもを連れてくる。だけど別に監禁したりだとか、誘拐しようってんじゃない。連れてきた子どもは絶対に家まで帰す。そうならなかったのは俺だけなのだ。

 ひょっとして珂雁は後悔しているのだろうか。俺の扱いに困っているんじゃないか。

 珂雁にとって俺は、危険分子だ。だって、俺がこの電話番号に電話をかければ、即座に珂雁は捕まってしまう。
 ぺらり、とページを捲る。最初は黄ばんでいた記事がだんだんと綺麗なものになっていくのは、あまりいい気分ではなかった。こんなものにいつまでも固執しなくていいのに。

 とっくに顔も骨格も変わっている。それを誰よりも、珂雁は近くで見てきたはずだ。いや、珂雁しか、見ていない。だというのに、珂雁はずっとこの頃の俺にこだわっているようだ。幼い俺と、過去の自分が犯したことに。

「……」

 面白みもなくなってきて、ベッドの上にノートを放り出す。大の字になって寝転がった。
 嫌なことしか考えられなくなる時ってあるよね。俺は今、そんな感じだ。

 たまに生きていることが面倒くさくなることがある。死んでみてもいいかな、なんて思う。実際、俺が死んで困る人っていないんじゃないかって思う。

 もちろん、大勢の人に迷惑はかけるだろう。死体を放置するわけにはいかないから。だけど、俺の死後、俺の死を受け入れるための気苦労を誰かにかけることはないと思う。だって、そもそも存在していないから。

 珂雁は困るだろうか。せいせいするだろうか。お荷物がなくなってラッキーってか。あんな記事を大層に切り抜いておいて。そんなに見つかるのが怖い?

 じゃあ、どうして攫ったんだよ。子どもは成長するって知らなかった? やめときゃよかった、なんて思ってる?

 無意識に、震える唇を噛みしめていた。への字に曲がった唇に力が入る。
 俺の世界は珂雁だけなのに。珂雁がいれば満足なのに。
 珂雁の世界で、俺は消し去りたい醜い傷痕なのかもしれない。




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