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 雨の日が3日続いた。洗濯物は乾かなくて、部屋干しの匂いが充満している。洗ったばかりの洗濯物だというのに、黴と埃のような匂いに空咳が出た。

「大丈夫か」
「うん……っ、平気」

 降りやまなかった雨も朝方から弱くなり、今は陽が差し込み始めている。久しぶりに見た太陽は、雨で濡れたあちこちで反射して一層眩しかった。

 ベランダで洗濯物を干す珂雁へ室内にかけていたハンガーを渡す。ゲホッゲホッとまた抑えられない咳が出た。いつまでたってもハンガーが受け取られず、口元から手を外して珂雁を見やると怪訝そうな顔で俺を見ていた。

「本当に問題ない?」
「平気だよ」

 納得のいかない顔で珂雁がハンガーを受け取る。また出てきそうになった咳を飲み込めば、余計に喉奥のイガイガ感が強くなってしまった。

 室内にいるからいけないのだろうか。少し埃から離れてみたほうがいいのかもしれない。あとでベランダで日向ぼっこでもするとしよう。
 ちら、と珂雁を見やるともういつもの黒い羽織を着て出かける準備は万端のようだった。

「今日はできるだけ早めに帰る」
「うん」
「何かいるものは?」

 珂雁はでかける時に毎回同じことを聞く。俺の欲しいと言ったものはなんでも買ってきてくれた。少し考えたが、今日は別に何も思い当たらない。

「なんにもないよ」
「そうか」

 わざわざ追いかけるようなことはしなかった。開け放されたベランダ前の日溜りに座り込んで珂雁に手を振る。
 どうせ玄関まで追いかけたって、珂雁は俺を連れて行ってくれないし、俺の足はきっと動かない。死にかけの爺さん相手にビビり散らしていたくらいなのだから。

 扉の締まる音が聞こえたと同時に、スイッチが押されたように咳が出る。気管がごわついたような感覚は、昔から雨が続くとよく現れるものだった。

 珂雁は俺が咳をする度心配そうな顔をするが、最近分かってきたことがある。俺は保険証など持っていないから、きっと体を壊されると困るのだ。

 はぁ、と溜息を吐き出せば力のない咳になってしまう。視界はきらきら。日差しは暖かい。することはなく暇だ。隠居生活ってこんな感じ?

「流石にもっと充実しているよ」

 急に聞こえてきた声に飛び上がって日陰へ逃げた。
 カーテンを握りしめてベランダを窺う。背丈の伸びた葉っぱがちろちろと揺れていた。瞬間、殺意が湧く。なんなんだよ、こいつ。まだいんの?

「元気?」

 けたけたと笑っているようだ。うっせぇ! と叫びそうになって、盛大に咳が出る。喉がひりひりした。

「調子が悪いの? こんなに閉じこもってるからだよ」
「っ……、俺だって別に」
「好きで部屋にいるわけじゃない? じゃあ、どうして好きにできないの?」

 ああ、もう。だから、うるさいな。本当になんなんだよ。今度こそ、珂雁に抜いてもらおう。

「知ってる? ほら、君の友達の祐輔くん、今じゃもう働いていて彼女との結婚も考えているよ」

 誰だよ。そんな奴しらねえよ。

「きっと子どもがいる人もいるだろうねえ。みんな、君のことを忘れて、楽しく人生を謳歌してるっていうのに」

 ゆらゆら揺れていた葉っぱが、葉の先端でお辞儀するようにして数を数え始めた。いちいち挙動に腹が立つ。

「いち、にぃ、さん……もう23かぁ。みーんな、小学校を卒業して、中学校に入学して高校に入学して、恋人を作ったり別れたり、勉強したり、テストで赤点を取ったり部活動をやったり。大学に進学して遊んだり研究したり就職活動をしたり」

 性別を感じさせない子どものようにあどけなく明るい声が弾むように話し続ける。俺の大嫌いな声だった。

「いろんな挫折や成功を味わってきたよ。もちろん辛い経験もしたかもしれない。でもそうやって、みんなが成長していく中で、夕陽は一体何を得た?」

 勉強は珂雁に教えてもらった。学力なんて問題はない。
 いや、違う。そんな話じゃないんだ。そんなこと分かっている。

 何も言い返せなくなった俺をせせら笑うように葉が揺れた。そんな様子に腹が立って、虚しくなって、悲しくなって。頭がカッと熱くなったが、何もできなかった。

 震える唇を噛み締めて鼻をすする。喉は相変わらずイガイガしていて、息を吐き出せば堪えきれずに咳が出てくる。頬が熱くなるのを感じた。

「あぁっ、ごめんね。ちょっと言いすぎちゃった。君は甘やかされて育ったから、こんなこと言われたらそりゃ泣いちゃうよね。ごめんごめん、ぼくの配慮が足りなかった」

 袖口でごしごし目元を拭う。馬鹿にされているみたいで悔しかった。

「お、おれ……だって、」
「うんうん、君は頑張っているよ。君の前にいるのは珂雁か、珂雁が連れてきた子どもだけだ。君と一緒に年を重ねてくれる人間はいなかったものね」
「……」
「しょうがない、しょうがない」

 言われるだけ言われて、何も言えない。

 珂雁は俺の言うことをいつだって、焦らずじっくり聞いてくれた。喋る隙を奪うような会話もしないし、俺の言葉を馬鹿にするような素振りも見せない。

 言葉が追いつかなくて、やるせない気持ちの表し方が分からなくて、俺は衝動的に葉っぱを踏みつけていた。

「いてっ、いてて、ホラ、そういうところだよ」
「死ねっ死ねっ」
「口より先に手が出る。おまけに言葉も拙い」

 素直に伝えるべきなんだよ。
 口に出したら叶ったこともあっただろう?

「……っ」

 そりゃそうだ。だって珂雁は優しいから、俺の言葉には絶対に耳を傾けてくれる。

 いつだったか、海が見たいと何度も言うものだから、連れて行ってくれたことがあった。
 冷たいよ、と言われたけどどうしても入ってみたくて、足だけつけて遊んだ。波が押し寄せて砂があたるちりちりした感覚も、磁石みたいに波が海に引き戻されていく心細さも、よく覚えている。

 早朝だったから人なんて誰もいなくて、海の向こうから朝日が昇ってくるのが綺麗に見えた。俺は遊んでいた動きも止めてそれに見入っていた。帰ろうか、と声をかけられても身動きなんてできなくて、たぶん、泣いていたと思う。

 歩き始めても砂浜に足を取られて俺が何度もコケるものだから、しまいには珂雁に抱えられた。全部、覚えている。笑っていた珂雁の顔も、朝の匂いも、べたついた潮風も、全部。

「もう少し貪欲になりなよ。君は人間なんだからさ」
「……簡単に言うなよ、雑魚が」

 年だけ食った意味のないプライドが、言いたいことも言えなくしている。

 サンダルの下の雑草を靴裏でじりじりと踏みつけることでしか感情の表し方が分からなかった。




 少し肌寒さを感じる。頭がスッと冷える感覚がかろうじて自分を冷静にさせてくれた。

 珂雁はまだ帰っていない。今日は早く帰ると言っていた。また誰かを連れてくるのかな。

 珂雁が連れてくるのは子どもか大人。大人を連れてくる時は大抵子どもも一緒だ。珂雁みたいに子どもが好きな大人を子どもと遊ばせてあげる。

 そういえば、珂雁は絶対に俺だけは他の誰にも触らせなかった。この年になれば、さすがに俺に触りたがる大人もいなくなったけど。

「……夕陽?」
「……」

 でも今では珂雁でさえ俺には触らない。別に、あの遊びに俺も混ざりたいわけではないけどさ。

「何してるの。寒いだろ」

 虚しいものだよね。子どもに触って、やらしいことしてる大人の脇で誰にも構ってもらえない大人の男がじっと情事を見てるなんて。俺はどんな顔で見てるのだろう。

 不貞腐れてるのかな。物欲しげにしてるのかな。なんだか笑える。

「夕陽!」
「っ」

 とっくに室内の電気がついていた。振り返れば、今帰ったらしい珂雁が上着も脱がないで俺を見ている。何時間も、俺はベランダでぼぉっとしていたらしい。

「お前、本当に大丈夫か? 最近変だぞ」

 ベランダに上がってきた珂雁が手すりを握ってチラ、と下を覗いた。怪訝そうな顔をしている。4階から飛び降りれば流石に死んでしまうだろう。そんなこと心配しなくていいのに。

 ふいにそんな珂雁の表情に、仕草に、何かのスイッチを押されたように感情が爆発するのを感じた。

「……は、葉っぱが」

 声が震える。

「ん?」
「葉っぱが喋るの!」
「は?」

 突然何を言い出すのだろう。数時間ぶりに口を開いたからか、自分でも驚くくらい大きな声が出た。でもそれがきっかけになったらしい。

 訳が分からない、というような顔をした珂雁に排水溝を指さして必死に訴える。次第に何の話をしているのか自分でも分からなくなってきた。

「抜いてって言ったじゃん! 掃除してよ! そいつがずっとうるさいんだよ!」
「葉っぱ……? お前大丈夫か?」
「うるさいっ! なんだよ、いつもいつも俺のこと置いていって。俺だって行きたいって言ってんのに!」

 馬鹿馬鹿しい。何言ってんだ、と思うのにじたばたと地団太を踏んでしまう。ただ機嫌の悪さにかこつけて不満をぶつけているだけ。気持ちの伝え方が分からない。不満をどう処理したらいいのかわからない。こんなの子どもと変わらないじゃんか。

「俺だって行きたい! 外に行きたい! 連れてってよ! なんで駄目なの!? 行きたいって言ってんじゃん!!」
「わ、わかった。わかったから、夕陽」
「うるせえ! 何もわかってない!」
「ごめん。明日行こう?」
「嘘だ!!」
「連れてってやるから」
「嘘つくなよ!!」

 視界がぐにゃりと歪む。目元が熱かった。

 声を出したからか、また喉の違和感が蘇ってきた。一度咳が出れば、止まらなくなってしまう。慌てて珂雁が俺を室内に入れようとしていたけれど、やっぱり俺には触れたくないみたいだった。

 言われなくても戻るし。珂雁を置いて乱暴にベランダの戸を閉める。

 テーブルの上には珂雁がよく買ってくる咳止めの市販薬が置いてあった。



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