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「咳、どうだ?」
「もう治った」
「……薬飲んどけ」

 せめてもの反抗に、今日は起こされるまで寝こけていた。いつもだったらもう珂雁は家を出ている時間のはずなのにまだ部屋にいる。今日はどうしてかそんなことにも腹が立った。

「なんでまだいんの」
「外、行くんだろ」
「……行かない」
「行こうよ」
「やだ」
「……じゃあ、俺も二度寝する」

 布団を被ってそっぽを向いていれば、がさごそと布団がめくられる音がする。ひんやりとした空気が入ってきて、背後で微かな温もりを感じた。

「……ぇ」

 がさがさ、と布が擦れ、すぐにさっきまでと同じ布団に包まれた温かさが戻ってくる。違うのは、そこに一人分の体温が加わったことだ。

 俺のすぐ後ろで、珂雁が横になっている。足も、背中も、体のどこにも触れはしない。だけど、温もりを感じた。
 心臓が凄まじい勢いで早くなっていく。途端、布団を被っているのが暑苦しいくらいの汗が噴き出てきた。

 本当に寝ているのか、背中越しに微かな息遣いが聞こえてくる。一定で、落ち着いていて、ささやかで。ちょっと、身じろぎをすれば触れてしまいそうで、余計にぴくりとも動けない。きっと俺がこんなことになっているなんて珂雁は知りもしないのだ。呑気にすーすー声を上げている。

 そっと、慎重に布団から這い出ようとした。もう十分離れたかな、というところで後ろを振り返れば、珂雁が目をつむって寝息を立てていた。

 久々に見た寝顔だった。目をつむっていても整った顔立ちは変わらない。薄く開いた唇の前で、頬にかかった髪が微かに震えている。

 どぎまぎしながらその寝顔を見ていた。珂雁の匂いが仄かに漂ってくる。長いまつ毛が揺れたかと思うと、ぱちりと目が開いた。

「っ!」
「日向ぼっこでもしに行こうか」

 誘うように目を細めて笑うと、珂雁は未だに固まっている俺を置いて、のっそりと起き上がった。

「天気がいいよ」

 だからなんだよ。昨日だってよかったよ。

「ちょっと気分転換するにはちょうどいい。平日だしね」

 平日だからって何が違うの?

「気温も上がりすぎないし、過ごしやすいよ」
「……ねぇ、外の葉っぱって喋ったりしない? そういう新種がいたりするの?」
「植物はしゃべらないよ……お前、やっぱり疲れてたんだよ」

 誰のせいだよ。そう思うけど、さすがに口には出さなかった。やっぱりアレは俺の幻覚なんだか幻聴だったのだろうか。自分が作り出したものにしては趣味が悪いな。的確に嫌なところをついてくるのも気に入らない。

 でも願いは一個叶ったかもしれない。
 外に出られる。

「ほら、着替えて……あ、ろくな服ねえな」
「はぁ?」

 買ってくるのは珂雁じゃん。引き出しを開けて服を選び始めた珂雁が唸っている。引き出しの奥底から着た事もない服を引っ張り出しては、俺の体に当てるふりをして首を傾げた。

「うーん……ちょっと部屋着くさいな」
「ダメなの?」
「だらしがない」
「ひっど」

 別に珂雁じゃないんだし、俺は何を着ても大して見目は変わらないだろうに。

「これでいいかなー……」
「ズボンは?」
「俺のジーンズ貸すよ」
「絶対足の長さ違うじゃん」
「まくっときゃいいよ」
「だらしない……」

 大きくなれば珂雁と同じくらいの身長になると思っていたのに、実際はそんなことなく、俺と珂雁は未だに10センチ以上背が離れていた。履いてみれば、やっぱり珂雁のジーンズは俺には丈が長くて、裾がつくどころじゃない。それを見た珂雁が声を上げて笑いながら、跪いて裾をくるくるまくってくれた。足首に珂雁の指があたりそうで、あたらない。妙に緊張していたせいか、生地が肌に触れるだけで変な鳥肌が立ってしまった。

「靴下はこれをあげる」
「なにこれ。ヤドクガエルみたい」

 珂雁が差し出したのはびっくりするくらい真っ赤な靴下だった。いつも黒ずくめの珂雁はまず履かない色だ。ちょっと派手じゃない?

「うん、おしゃれ」
「そうかなぁ……」
「夕陽は明るい色がよく似合う」

 ようやく出かけられる格好になった俺を足元からじっくりと見て、珂雁は満足そうに頷いた。なんだか今日はやけに表情が豊かだ。

「さ、行こうか」
「う、うん……」

 当たり前のように珂雁が玄関を開ける。ベランダで吸う空気とは少し違う、日陰の匂いのする風が入り込んできた。ちょっと埃っぽい。

 珂雁が言うように平日の昼間だからなのか、団地内は静まりかえっていた。ここら辺に住んでいるのはほとんどが今にも死にそうな老人たちだから、平日だとか昼間だとか、そんなことは関係ないのかもしれないけれど。

 紐が足を覆うような不思議なデザインのサンダルを履くのに俺は手こずっていた。履いたこともない靴で外を歩くのも少し怖い。珂雁は玄関先でじっと待ってくれていた。

「お、待たせ」
「うん」

 ゆっくりと立ちあがる。地面に足がくっついたみたいにピクリとも動かなかった。膝が笑ってしまう。
 手を握ってよ。そう言いたかった。

「大丈夫?」
「うん……うん」

 なんとか一歩を踏み出し、玄関扉の枠を越える。
 足が震えていた。普通に歩いているはずなのに、かくかくしてしまう。筋肉の衰えだろうか。ずっと引きこもっていたんだから、きっとそうだ。

「階段、気を付けろよ」
「馬鹿にしてん……ひっ」

 ずるっと足が滑り落ちそうになって、小さく悲鳴を上げそうになってしまった。先を歩いていた珂雁がすごい勢いで振り返る。手すりにしがみついたまま、俺はそのままストンと階段に腰を下ろしてしまった。

「……」
「……戻る?」
「戻らない」
「そ」

 珂雁がほんの数段下の踊り場で、急かすことなく俺を待っている。手すりを掴んで立ちあがると、両手で手すりを握って恐る恐る階段を降りた。

「!」

 ようやく踊り場までたどり着いた時には、足の震えも少しはマシになっていた。やった、という気持ちで珂雁を見れば、子どもに笑いかけるように優しい表情をしている。直視できずに慌てて俯いた。

「もう大丈夫」
「そう? じゃあ、行こう」

 タン、タンと心地いいリズムで珂雁が階段を降りて行く。どんどん離れていく距離に怖くなって、必死になって追いかけた。

 4階ってこんなに上だったっけ。いつまで下ればいいの?
 ただひたすら階段を降りるうちに、だんだん目が回ってくる。そろそろまっすぐ歩けない、と思ったその時、パッと頭上に陽が差した。眩しさに思わず目をつむる。

 外に出ていた。薄く目を開けば、目の前には植木の緑が陽の光に輝いている。アスファルトの隙間から雑草がたくさん伸び、オレンジ色の花が揺れていた。

 どこからか、野球の球を打つ音が聞こえてくる。風が木々を揺らすさざ波のような音が耳に入った。
 ざわざわしている。鳥が鳴いている。生ぬるい風が肌を撫でていく。
 目に映る世界に壁はない。続いて行く道はどこまでも伸びていた。

「か、珂雁……」
「おいで。車で行こう」

 ポケットから鍵を取り出した珂雁が歩きながら手を伸ばす。すぐそこの駐車場に止められていた黒の軽自動車のフロントライトがちかちか光った。

 珂雁が遠くなるほど支えを失ったように足が震える。逃げるように俺は珂雁に駆け寄っていった。
 開けられた助手席側のドアから車の中に入り込む。こもった空気は熱っぽかったが、閉鎖された空間には安心した。

 運転席に座った珂雁をじっと見てしまう。中性的で儚げな顔をしているのに、背は高くて骨格は俺よりもずっと男らしい。慣れた仕草で運転する姿が珍しくて俺にはつい見入ってしまった。

「どこに行くの?」
「公園」
「ふーん」

 なんだ。遊園地とか行ってみたかったな。
 そう思うものの、流れる景色が物珍しくて俺はずっと窓に張り付くようにして外を眺めていた。



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