第5話
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「神田君、やることはたくさんあるはずなんだけど。何ぼさっとしてるの」
でかい図体を丸めてすみませんを連呼する神田を横目に、苛々が募っていく。やることやれてねぇ奴が何言ってる、言い返しもしないで八つ当たり受けてるだけのバカが何謝ってる?
「岬くん、悪いんだけどこれ届けてほしくて」
「はいっお安い御用です!」
あーあ…俺もバカみてぇ。受け取った書類を持って出て行くとき、お局様からのお叱りを受けている神田と少しぶつかった。何ぶつかってんだよ、と昔ならわけの分からないいちゃもんをつけて殴りかかっているところだ。そのくらい今日の俺は気が立っていた。
神田は自分から喧嘩をひっかけるわけではない。誰に喧嘩を売るでもなく、ただ売られた喧嘩をぶちのめして返すような奴だ。俺たちと違い、あいつはいつも一人で、俺はただ、一人で五人相手に楽々と勝ったあいつに興味が湧いただけだった。それだけだ。学校も違ったし、顔を合わせるのに別にわざわざ連絡をとったりもしていない。ただ好奇心で話しかけただけだ。
それなのに、いままで一匹狼を決めていた神田がなんとなく自分に懐いてくれているような気になってしまっていたのだ。誰に対しても最低限のことしか話さないあいつが俺の存在を認め、俺の言葉には応じてくれて、自分から話しかけてくれる。たとえそれが愛想のかけらもないひどい言葉でも、ちょっとした優越感を感じていた。
たいてい神田が問題を起こすと、頼むあいつを止めてくれ、と俺に連絡がきた。岬さん、と泣きつかれれば行かないわけにはいかない。そうして神田を回収しに行くと、あいつもあいつで俺を見てしてやったりという顔をするのだ。我ながらとんでもない狂犬に好かれていた。
だからあの事件があった時も、俺は飼い犬に噛みつかれたような気分だったのだ。ショックを受けたのはあの日俺が病室で目を覚ましてから、神田が俺の前から姿を消したことだった。
それ以降一度も会うことはなく、行方も知れず。いざ再開してみればあの様だ。気配もなく現れては目を塞いでくるわ、キスマークつけて出社するわ。黙って俺の前から消えたことに対して何かないのか?そりゃもう十年近く前の話だが。
苛立ちに任せて丸めた書類で自分の太ももをひっぱたいたら、思いのほか痛くて情けないことにうずくまってしまった。今日の朝あまりにもへぼいパンチしかできなくて時の流れを感じたところだったが、平均を大きく上回っている力の強さは変わっていない。さらに喧嘩をしなくなってから自分の限界に鈍感になっている。
「いてぇよ…これ絶対あとから赤くなるやつ…」
「どうした、大丈夫か」
悠々とした低い声が背中越しに聞こえた。神田だ。睨むように後ろを振り返れば、屈んだ神田と目が合った。心配されるようなことじゃない。たいして痛いわけでもないし。
無言でそそくさと立ち去る。いつも髪で隠れているはずの神田の耳が去り際に目に入った。ぱっと見でもいくつものピアスの穴があるのが見えた。
いつだったかもう忘れたが、一度調子に乗った神田に面白がっておぶられて帰ったことがある。おぶられながら神田のピアスをいじって怒られたのだった。
あとあと膝を骨折していたことが分かったが、その時は激痛で苛々していて神田のピアスを引きちぎる勢いで引っ張ったのだ。ただ一言、振り落とすぞという言葉と共に首をひねった神田に容赦なく指を噛まれ余計に機嫌が悪くなったことを覚えている。いや、たった今思い出した。
そう言えばあの時、コイツ俺の指に噛みついたんだよな。
記憶は怖い。一つのことを思い出せば芋づる式に思い出す必要もないこともずるずると出てくる。例えば、あの時の神田のやけに広い背中とか、体の温かさとか、噛まれた指の痛みとか。…神田の舌の感触とか。
あれ?なんか俺たちってよくよく考えてみたら距離感おかしかった?
そうだとしたら、余計にだ。
なんであいつは何も言わずに俺の前から消えたんだろう。
八年ぶりの謎が今になってまた腹の中で渦巻いた。胃が浮くような感覚がひどく気持ち悪かった。
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