第7話


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 俺は無意識に唇に指をあてていた。視線がデスク脇の缶コーヒーにとまる。まだささやかに湯気を立てているそれを見て、また視線を画面に戻した。
 
「…いるんだろ、神田」

 すこし掠れてはいるものの、はっきりとした声が出た。声を張り上げるつもりはないが、聞こえないと困るのだ。また逃げられたら困る。ゆっくりと時間が過ぎた。人の気配は微塵もない。
 
「神田」

 宥めるような声が出た。うしろからガタッと音がする。

 ゆっくりと振り返れば立ち尽くす神田が俯いていて、掻き揚げた前髪と外した眼鏡で赤く腫らした目元がよく見えた。
 
「…今お前が俺にしたこと、言ってやろうか?」

 厚めの唇を強く噛み、ふるふると首を横に振った。小学生でも叱っている気分になるからいつもみたいに減らず口を叩いていてほしい。
 
「じゃあ、八年前、お前が俺にしたことのほうがいいか」

 神田が目を見開いて俺を見た。やっとこっちを見てくれたというのに、その目つきの悪さと赤い目元に吹き出しそうになる。さすがにそんなことをしたら逃げかねないので頑張ってこらえる。
 
「…っな、んで。おま、気づいて」

 若干赤くなっていた顔がみるみるうちに青くなっていく。逃げ出さないうちに捕まえないと。もう懲り懲りだ。

 立ち上がると机一つ挟んで、俺は神田のネクタイを引っ張った。神田がさらに目を見開く。きっとそれが限界なんだろうけど、それくらいでやっと俺の平常時と同じくらいの目の大きさだ。片膝を乗り上げ、神田に顔を近づける。

 ああ、ほら。この匂いだ。

 驚きで小さく開いた口に唇を重ねる。すこしかさついていたが柔らかかった。唇に舌を這わせればぴくりと体が震えたのが見て取れた。最高に面白い。

 しかし神田からは何の反応も帰ってこない。面白くない。

 つまらなくなり唇を離すと、放心状態の神田がいた。

「…テメェ、何した」
「何って、神田がやったことだよ。言われたくないみたいだったからやってみた」
「っざけんな!気持ちわりぃ」
「じゃあもっと気持ち悪いこと、する?」
「…」

 一呼吸の間があいた。やべ、おれ、間違えた?

「岬」

 初めて沈黙を怖いと思った時だ。ネクタイを引っ張っていた手首を強い力で握りしめられた。一瞬ひるんだが、ここで俺が引いてしまえば八年前の二の舞だ。今度コイツを逃がしたら、一生神田はこのままになってしまう。八年たった今でも、コイツは俺にご執心だったのだから。まあ、それを言えば俺も人のことは言えないが。

 そうだ、知っている。神田はなんだかんだで俺のことが大好きなのだ。最初に手を伸ばしたのは俺なのだから、俺がその気持ちを解くなりねじ伏せるなりしてやらないと。


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