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バイト先のバイク用品店は人の出入りが激しいわけではない。検品を終え梱包作業をしている時に社員の音牧さんがこっそりと缶コーヒーを差し入れにきてくれた。
「お疲れ様」
「っす! ありがとうございます」
「小屋原くんは今日も元気……」
にっこりと笑いかけて音牧さんはきょとんと首を傾げた。その仕草が可愛らしくてつい微笑してしまう。音牧さんはずいぶん柔らかい印象のお兄さんでバイク屋よりも花屋が似合うそうな人だ。修理にあたっていたらしい音牧さんはその柔和な雰囲気にオイルの匂いをまとわせている。
俺はこの人このギャップが好きで、音牧さんが店舗にいる日はいつもの2倍はやる気に溢れていた。とはいえ、今日は流石の俺も動揺していた。力なく笑った俺に音牧さんが眉を顰める。
「小屋原くん、何かあった?」
「えっと、その……」
「どうしたの?」
背の高い音牧さんが俺の顔を覗き込むようにして膝を曲げて屈んだ。整った顔立ちに茶色がかった柔らかい髪がかかる。大きな目が俺をじっと見つめ、ぱちりと瞬いた。あまりにも綺麗なその目からつい視線を逸らしてしまえば、音牧さんは小さく息を吐きだした。
「もしかして……あの子のこと?」
声を抑えてそう聞かれる。囁くような声には確かに心配が滲んでいる。
そういえば綾乃ちゃんを最初に警戒し、俺にストーカーの可能性を教えてくれたのも音牧さんだった。
バイト後によく飯を奢ってくれるし、仕事のことで困ったことがあってもすぐに助け舟を出してくれるし、俺の理想で憧れのスマートな大人。かっこよくて、可愛さもあって、よく気がついて、優しくて。
……そうだ、面白半分の山田よりずっと頼りになる人がいるじゃないか!
音牧さんならきっと親身に相談に乗ってくれる。音牧さんならきっとこんな時どうするのが一番いいのか教えてくれるかもしれない。
覚悟を決めた俺は、唾を飲み込んで顔を上げた。
「あの、俺……もしかしたら見られてるかもしれなくて」
「見られてる?」
やたらとなくなる洗濯物のこと、綾乃ちゃんのSNSのこと、無言電話のこと。話し終える頃には、音牧さんの表情はずいぶん険しいものになっていた。
「小屋原くん、それはれっきとしたストーカー被害だよ」
音牧さんは相談している俺よりもずっと思いつめたような険しい顔で考えてくれている。そのことに俺は心強さを感じて、ようやく重荷が軽くなったように思っていた。力んで硬くなっていた肩に音牧さんの手が触れる。少し汚れたその手の優しさにようやく全身の緊張がほぐれるのを感じた。
「小屋原くん」
音牧さんがまっすぐに俺を見て口を開いた。いつになく真剣な眼差しをしているせいで、なんだか今から告白でもされるような重い空気が流れていた。音牧さんの形の整ったアーモンドアイに見つめられて、頬が若干熱くなるのを感じる。
「もし家に帰るのが嫌だったら、俺のうちにおいで。すぐに対応をして相手を刺激するより、しばらく家を空けて様子を見るのもいいかもしれない」
「っ、本当ですか!?」
正直見られてるかもしれないあの家に帰るなんて、怖くてどうしようかと思っていたのだ。つい音牧さんの腕を掴んだ俺の勢いに、音牧さんがふわりと笑う。
「一人で帰るのも、家に一人になるのも今は怖いでしょ」
自然な仕草で頭を撫でられてつい固まってしまった。年下だからだろうか、ずいぶん子ども扱いされているように思う。
「お、音牧さん……」
「あ、ごめん、つい……汚い手で」
「いや汚いだなんて、音牧さんの手はいつだって綺麗ですよ!」
「あ、ありがとう? それより小屋原くん、怖かったね」
優しい言葉と共に、頭の上に置かれた手の温度を感じてしまう。パニックに陥って以降妙に鈍感になっていた感覚が急に戻ってきたみたいだった。じわ、と涙腺が緩みつい涙が出てきそうになる。必死に俺は我慢して誤魔化すように顔の前で手を振った。
「や、そんな。そんな怖いなんて」
「誰だって怖いよ。見られてるかもしれないなんて。そしたら、今日は上がったら一緒に帰ろうか」
「っ、はい!」
音牧さんは職場近くのアパートで独り暮らしをしていた。同じ独り暮らしと言っても、学生の俺とは比べ物にならないほど綺麗で広い部屋だ。お風呂だってユニットバスじゃない!
「散らかっててごめんね」
「え!? どこがっすか!? 俺の家とか床に三足くらい靴下転がってますよ!」
「あははっ、男子大学生だ。かわいいね」
あんなことがあったからとは言え、憧れの音牧さんの家に上げてもらえるなんて俺はラッキーかもしれない。同じ1Rなのに広いからか、センスの差がありすぎるからか、音牧さんの部屋はモデルルームみたいに整っていた。
ベランダ側にベッドがあり、その手前に本棚を置くことでリビングのような空間と寝室となる空間を分けているようだった。音牧さんはテレビをつけると俺にソファにかけてくつろいでくれ、と言った。言われた通りにソファに腰を下ろすが、どうも緊張してしまう。ちらっと音牧さんを窺うとちょうど着替えているところで、慌てて目を逸らした。一瞬見えた腹筋がバキバキに割れていたのが頭から離れない。
あの雰囲気と物腰の柔らかさでバイク乗りだってだけで相当のギャップなのに、まだ追い打ちをかけてくるのか、この人は。甘めでかっこいい顔をしているのにあの腹筋。
きっとかわいい彼女がいて大事にしているんだろうなぁ。えっちだって絶対優しくて超絶気持ちいいんだろうなぁ。なんて我ながら気持ち悪いことを思ってしまう。この生活感に溢れる空間にいれば、そんなことを考えてしまってもしょうがないじゃんか。
「小屋原くん」
「ひゃい!」
「お風呂沸いたみたいだから、先に入っちゃって」
俺に寝間着とタオルを渡してきた音牧さんは、すっかり部屋着のスウェット姿になっている。作業着姿ばかり見てきたものだから、リラックスしたそんな恰好につい魅入ってしまった。
やっぱり何を着ててもかっこいい。こんなにスウェットが似合う人なんているのか。推しのファンサが過ぎて泣きたくなるまである。
「小屋原くん?」
「あっ、ハイ。えっと俺が先でいいんですか?」
「いーのいーの。俺だいたい毎日シャワーだけだし」
「えぇ! ユニットバスじゃないのに勿体ないですよ! 俺湯船浸かれるなんて久しぶり!」
「それはよかった」
にこっと微笑まれて心臓がぎゅんと縮こまった。イケメンの笑顔の破壊力たるや凄まじい。
ありがたくお風呂を頂戴して全身が温まれば、改めて音牧さんの家に上がらせてもらっている事実に恐れ多くなった。脱衣所に音牧さんが出入りする音が聞こえ黒い影が見える。身じろぎをするのも恥ずかしくて湯船の前で体育座りをしてじっとしていたからか、思ったより早くのぼせてきてしまった。
いったいどれだけの時間湯船に浸かっていたのかまるでわからないくらいぼーっとしている。俺が冷たいお茶を飲んでいる間に、音牧さんはお風呂に行ったようだった。ふかふかのソファに腰掛けているうちに抗えない眠気が襲ってくる。
電球の白が目に眩しい。それすらも目を閉じる気持ちのいい刺激で、つむった目を開けようと試みては眠気に身を任せた。
ふ、と気が付いた時には肩から薄手のブランケットが掛けられていて、部屋の照明は橙色の柔らかい色に変わっていた。
音牧さんがローテーブルに肘をついて音量を下げたテレビを眺めている。俺が身じろぎをした音に気づいたのか、ふいに後ろを振り返ってふわりと笑った。
「あれ、起きちゃった? ベッド使う?」
「ん、えぇ……や」
「ふふ、眠そ」
夜を思わせる控えめな声でクスクスと笑われる。音牧さんの顔の輪郭が、テレビの明るい画面で白く縁どられた。何を思ったのか、穏やかに笑っている音牧さんがゆっくりとした動作で俺に近づく。
膝に手が触れ、身を乗り出されたその時、テーブルの上に置いていた俺のスマートフォンが激しく着信音を立てて震えた。
「っ!」
びくん、と震えた俺を見て、咄嗟に音牧さんが俺の手を握る。
「大丈夫」
「でも……」
「気にしなくていいよ」
ソファに乗りあがった音牧さんが俺を抱きしめるようにして肩に腕を回した。耳元で柔らかい声が囁く。
「大丈夫。今日はもう寝よ?」
「うう〜ん」
着信音はまだ鳴っていたが、身体を包む熱とあやすように頭を撫でる規則的なリズムについ安心してしまったらしい。再び睡魔が戻ってくる。力が抜け始めた俺の体が、音牧さんの体に体重を預けているのが、なんとなく分かった。分かってはいたけれど、肉体的な疲労に加え精神的な疲労のせいで、それを止めることはできなかった。
「ね?」
「……ぅ、ん」
音牧さんの石鹸のようないい匂いが一段と濃くなったのを、俺は眠りに落ちながら確かに感じた。
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