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本当に俺の生活から綾乃ちゃんは消えた。朝待ち伏せされることもなければ、四六時中後をつけられることもなくなったし、視線を感じることももうない。
ポストに大量に投函された謎の写真に関しても、山田の言う通りあの一度きりのようだった。
「あれから、どう?」
音牧さんは今日も今日とてふんわりした雰囲気にオイルの匂いを染みつけている。甘い目元が心配そうに瞬く。そんな音牧さんに今日の俺は満面の笑みで返すことができた。
「それがすっぱりなくなったんです!」
「そっか……」
綺麗な唇が控えめに動いた。客足の引いた店内で有線が流れている。もう今季だけで何百回と聞いてきたせいで空で口ずさめる恋愛ソング。音牧さんはゆったりと口角を持ち上げると目を細めた。
「それなら俺も安心した」
「ありがとうございます!」
「ずっと連絡しても返信が来なかったから……お家の事情って言ってたし余裕もないかな、とは思ってたんだけどもしかしたらって心配してたんだ」
「え、連絡って」
その時入店を知らせるチャイムが聞こえた。音牧さんは腰にぶら下げた修理具をガチャガチャと鳴らしながらパッと立ち上がった。去り際に手を握られ、耳元で囁かれる。
「なにかあったらいつでもおいで。頼ってくれたら嬉しい」
にこ、と笑って去って行く音牧さんの後ろ姿が小さくなっていく。そんなことを素で言える大人に俺もなりたい。女の子だったら秒で惚れている。
思わず音牧さんに見惚れてしまったが、はたと思い出す。
「音牧さんから連絡来てたっけ……」
気づいていなかっただけなのか。いますぐ確認したいが、スマホはロッカーに預けている。
音牧さんに握られた手には微かな温もりが残っていた。カシャンと音を立てて何かが床に落ちていく。
視線を落としてみると、銀色の鍵が落ちていた。さっき音牧さんに手を握られた時、何かを渡されたような気がしたがどうやらこの鍵だったらしい。
どうみても、家の鍵だ。車や倉庫の鍵でもない。
「……え? 俺が持ってていいの……?」
拾い上げた鍵を見つめ、その意味を考える。こういうのって普通恋人なんかに渡すものだと思うんだけど。というか音牧さんてもしかして彼女さんいないのかな。それは意外だ。世の中の女性はあんな素敵な人を放っておくの? 俺がもらっちゃうよ。いいの?
一度だけお世話になったあの部屋を思い出す。居心地がよくてやけに気持ちよく眠れて、気持ちよく起きれた。また音牧さんの家に行く機会があるのなら、今度は切羽詰まったものじゃなく、楽しく映画を見たり酒を飲んだりしたい。そうやって、この鍵を気兼ねなく使えるほど音牧さんともっと仲良くなれたらいいのに、と思う。
俺は手の中の鍵を少し不思議に思いながらも、お守りのように大事にポケットに忍ばせた。
午前中のバイトが少し長引いて、上がった時にはもう飲食店の昼時の混雑も薄れていた。数か月ぶりに背後を気にせず、自分の好きなように行動できる。好きな店に入って何を頼んでも、もう俺を見ている人間はいないのだ。
そうだ、買いたかった漫画を買って帰ろう。山田が勧めてきたちょっとえっちな漫画もこの際買ってしまおう。
ずっと行動を制限されていたストレスからか、日が傾き始めるまで俺は一人で遊びつくし、しょぼい大学生の財布の中身も気づけば小銭くらいしかなくなった。
「うわ、散財って感じ」
いやいや、必需品だ。別に見境なく娯楽に金をつぎ込んだわけではない。どうせなら山田でも呼びつけたほうが楽しかったかもしれないけど。
両手に紙袋を持って家に着くころには辺りも暗くなっていた。口笛でも吹きたいくらい気持ちいい気分で鍵を取り出す。キーケースに音牧さんの鍵がついているのを見て、余計に気分がよくなった。
玄関の鍵を回す。一瞬違和感が頭をよぎったが、気に留めるようなものではなかった。
開けたはずの扉を引けば、ガタンと大きな音がして開かない。
「……え?」
俺、今鍵を閉めた?
もう一度取っ手を掴んで引いてみる。明らかに鍵がかかっている。
「……」
もしかして今朝閉め忘れて家を出たのだろうか。とはいえ、ここのところ防犯には注意を払ってきた。確実とは言い切れないが、確かに閉めて家を出たはずだ。
ほんの少し嫌な予感がした。もう一度鍵を開け地面に置いた紙袋を持ち上げた時、横のポストが目に留まる。
どうしてそんなところを見てしまったんだろう。
ポストの口からは入りきらない郵便物が溢れていた。
「っ……!」
瞬間、背筋にぞわりと悪寒が走った。
確かに俺は数日家を空けていた。でもその間、ポストに溜まっていた郵便物は全て帰ったその日に回収している。朝にバイトへ向かう前にはポストを見た時にはこんな風に溢れるほどのものは入っていなかった。
たまたま今日一日、俺が家を空けている間に大量の手紙が投函されただけかもしれない。そろそろ水道料金の請求も来るはずだし。でも、この大量の郵便物すべてがそんな公共料金なわけがない。
暗くなり始めたからか、外廊下の電球が一斉に廊下を照らした。不健康に薄黄みがかった光が頭上で明滅する。俺はしばらくその場で固まった。
気づかぬうちに震えていた手から荷物が滑り落ちて床に倒れた。震える手をポストの蓋に伸ばしたが、うまく開けられない。どんどん頭が真っ白になっていく。
アルミの蓋がかたかたと音を立てていた。なかなか掴めないポストの蓋を爪が引っかき嫌な音を響かせる。もう勢いに任せて蓋を叩いてしまえば、中に詰まったものたちが一斉に廊下に飛び出した。
慌てて床に散らばった手紙を拾い集める。見覚えのある白い便箋。この中身は?
想像がつく。どうせまた、写真だ。誰だ? 綾乃ちゃんじゃないの? 違ったの? なんで閉めたはずの玄関が開いてたの?
ポストの中にはなぜだか茶色い紙袋も入っていた。明らかにポストに入れるようなものではない。厚みを持ったそれに置き配でも頼んだかと思ったが、もちろんそんなものを頼んだ覚えはない。
廊下にいるのが怖かった。ここでは誰かに見られていそうだったから。それとも家の中もそうなのだろうか。見られているのだろうか。だって、鍵が、鍵が開いていたじゃないか。
「っうぅ……」
いろいろな心配が頭を掠めるが、とにかくかき集めた便箋と袋を手に玄関の中に入る。急いで鍵を閉めた。
こんなものわざわざ見ないで処分したい。でも何が入っているのかは分からないし、もしかしたら関係ないかもしれない。
心臓がバクバクと脈打っていた。俺はスマートフォンを取り出して、山田に連絡しようとした。
出ない。そうだ、あいつは今からバイトだ。きっと夜まで。どうしよう、どうしよう。
音牧さん。そうだ、音牧さん。
そう思ったのに、なぜだか探しても探しても音牧さんの連絡先が出て来ない。名前を検索しても、覚えている会話で心あたりのある単語を検索しても、何一つヒットしない。
「な、なんで……」
玄関先に散らばった封筒を前に座り込む。震える指でその一つを取り、俺は中身を取り出した。
「……」
やっぱり写真だ。俺の写真。いっぱい。
なんで? 誰? 誰が撮ってるの? 綾乃ちゃんじゃなかったの?
「はっ……は……」
もう一つある。この紙袋。
手を伸ばせば、静かな部屋で紙の擦れる音だけが響く。その音が思ったよりも大きく聞こえて、俺を思わず周囲を見回した。
「っ……」
体中から汗が噴き出る。首から伝う汗が気持ち悪く、顔中も濡れているのを感じた。
がさがさと耳につく音が鳴る。テープで止められたその紙袋をいつまで経っても開けられなくて、もう諦めて引き裂いた。
恐る恐る中身を取り出す。布だった。
「っ、な、なに……なんなの……」
気持ち悪い。何なんだよ、コレ。
電気をつけていないから視界が悪い。よく見えない。過呼吸でも引き起こしそうなほど激しく呼吸をしながら、目を凝らして手元を見てみる。何かが手に触った。明らかに湿り気を帯びたソレ。
「ひっ……」
今度は確かに触った。べちょり、とした粘性を持った何かが指に触れる。震えがぶるぶると足から首筋にまで這い上がっていった。そのまま弾かれたように手の中のものを離して立ちあがる。廊下の電気のスイッチを殴りつけるようにして入れた。
明るくなった視界に数回瞬きをして目が慣れる。目に入ってきたものを認識した瞬間、脳のキャパシティを越えて眩暈を感じた。
「なんで……なんで……」
そっかぁ、なんて安心するわけがない。俺のパンツ。ずっとなくなり続けた俺の下着。なんで? 意味が分からない。
さっき手に触れた感触を思い出す。嫌な予感がした。それでも確かめずにもいられなかった。目を逸らしながら、返ってきた自分の下着を摘まむ。
うっすらと目を開いて見てみれば、今度ははっきりと認識できた。
べっちょりとついた白い液体。男なら見慣れているソレ。変色して黄味がかり固まりかけている。何をしたのかは明らかだった。
理解できない。確実に綾乃ちゃんではない。じゃあ誰なんだよ。俺が何をした? なんで?
思わず下着を投げ捨てた。床に落ちていたスマートフォンをもう一度手に取る。もう誰でもよかった。繋がりさえすれば誰でもよかった。
もう一度山田に電話をかけてみようとして通話ボタンをタップしようとした瞬間、静寂をけたたましい音が裂く。
「ひぃあっ!!」
取り落としたスマートフォンがぶるぶると振動している。もう見たくない。嫌な予感しかしない。画面に表示された名前を覗き見る。
非通知設定だった。
俺は鍵を掴んで外に出ると、ガチャガチャと何度も玄関を閉めるのに失敗しながら、どうにか鍵を閉め、一目散に逃げ出した。
一体、何から?
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