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「…………遅い」
秒針の音が耳に入る。机に突っ伏したまま卓上時計を引き寄せて握りしめた。何時だ?
時計の針を読むのが怖かったから、わざと時間は見なかった。テレビも消した。だって遅すぎる。
もしかしたら連絡入っているかな、なんて思うが、やっぱり見るのが怖かったからスマートフォンも電源を落とした。電源が入っていたら気になって気になって一秒おきに確認してしまう。
折本が帰ってこない。
食卓には、ラップのかけられた冷えたものたちが並んでいる。ぐぅ、と小さく腹が鳴った。
食べてしまおうか。もう駄目じゃん。きっと今日は帰ってこないよ。今までだって朝帰りなんてざらにあったじゃん。きっと今日もそうなんだよ。
明日になってみれば分かる。朝になって、スマホの電源を入れてみればきっと連絡くらい入ってる。
それとも本当に、何かあった……?
心配になってやっぱり電源を入れてしまう。再起動の遅さに苛々しながら待っていたが、やっぱり開いた画面に折本からの連絡を知らせる通知はなかった。
「…………っざけんなよ、カス」
今朝のことか。それとも昨日のことか。どちらにせよ元凶は明らかに俺だ。転職先が決まったなんて嘘をつかなければよかった。早まって感情任せにバラさなければよかった。
でも、どうして帰って来ないんだよ。ここは俺の家じゃない。俺と折本の家だ。
握りしめた拳のせいで、手のひらに爪の痕がついている。溜息を吐いて立ち上がると、炊飯器を開けて茶碗いっぱいにご飯を盛った。乱暴に食卓に茶碗を置いて手を合わせる。水滴のついたラップを外して小皿に盛り分けて、がむしゃらに箸を運んだ。
自分の作った飯は美味い。冷えてても美味い。ずいぶん、料理がうまくなったと思う。
苛立ちを消化するようにがしがしと咀嚼した。歯がガチンッと音を立てるくらい、大荒れの感情に任せて飯を食らう。いろんな味が、食感が混ざって、飲み込む前に次から次へと口に入れる。咀嚼が間に合わず、むせてはせき込んだ。
やがて口を動かすのも億劫になった。減っていないおかずと、汚い食べ方をしてしまった食卓の品を見て後悔した。
カタン、と重みのある音で茶碗が食卓に置かれる。食器の擦れる音が虚しくしただけで、あまりにも無音だった。当たり前だ。この家にいるのは、俺一人なのだから。
震えてくる唇を噛みしめて立ち上がる。むしゃくしゃしながらタッパーを取り出すと、作った料理を乱暴にタッパーに詰め込んだ。移しかえるその作業は、例えようのない悲しさとやるせなさで、泣きたくなった。惨めにさえ感じた。俺は自分のために毎日飯を作っているんじゃない。
タッパーの蓋を叩きつけるようにして閉めると、投げ込むようにして冷蔵庫へ放り込む。冷蔵庫さえ乱暴に音をたてて閉めてしまった。
静かになった室内で、何を子供じみたことをしてるんだ、と情けなくなる。どこに当たり散らせばいいのかわからない感情に腹が立って仕方がなかった。
結局、折本は帰って来なかった。次の日だって、帰って来なかった。三日目になってようやく、『しばらく仕事が忙しい』と連絡が来た。
仕事が忙しいってなんだよ。会社に寝泊まりでもしてるのかよ。辞めろよ、そこ。俺が寝食忘れて仕事してたら、お前は俺に会社辞めさせただろ。
日に日に冷蔵庫を占めるタッパーの割合は増えていった。ご飯は固い。部屋は暗い。食卓には今日も、ラップのかかった夕飯が並んだままになっている。
仕事が忙しい、と言われただけで、帰らないとは言われてない。俺は待ってる。
それとも、ここはもう折本が帰ってくる家じゃなくなったのだろうか。折本を待つ家じゃなくなったのだろうか。
異動も引っ越しもまだ先だろう。ここに帰らないでどこにいる? 転職なんて嘘だ、と言うタイミングさえ失ってしまった。
「……馬鹿じゃねえの」
ハハッと笑えてしまう。そういえば俺は過去、折本に馬鹿だと言われて、本気で泣き喚いて狂乱したことがあった。働き詰めで疲弊していたあの頃は、自分の頑張りすら馬鹿にされたように感じてしまった。そのくらい余裕がなかった。
今ではもう、あの頃の俺が異常だっただけだと分かる。自分で自分を馬鹿だと言えるくらいには健康になれた。そんな環境を与えてくれたのは紛れもなく折本なのだ。
沈んでいる気分に比例しているように、雨が続いている。ベランダを開けて見れば、朝から降りやまなかった雨は霧雨に変わっていた。
夜の冷気が頬に当たるのが気持ちいい。少し、頭を冷やそう。
サンダルをつっかけると傘を持たずに外へ出る。遠くで電車の走る規則的な音が通り過ぎて行った。
流石にこの時間に出歩く人間もそういないようだった。車一台通らない。時折、家の窓から漏れる光が見えた。室外機が回る音と、排水の生活音が耳に入る。機械音と、虫の声。また遠くの線路を電車が通った。
自然と駅のほうへ足が向かっていた。明るいコンビニの前を通り過ぎる。サンダルを引きずるような、地面を擦る音が道路に響いた。都内とはいえ、都心を外れた郊外では夜も大して明るくない。数十メートルおきの街灯に群がる虫がちりちりと音を立てていた。
ポク、ポクとやけにゆっくりなテンポで足音が近づいてくる。人の気配に若干身構えた。俺一人しか歩いていなかった道路に、その足音はやけに大きく聞こえた。
革靴で地面を歩く音だ。残業だろうか。スーパーも締まっているこんな時間まで、ごくろうなことで。それとも飲み会か何かだろうか。
後者だといいね、なんて他人のことを心配していると、ふいに近づいてきた足音が直前で止まった。斜め前に綺麗な革靴が見える。薄黄みがかった街灯に照らされて、すらりと長い足が伸びていた。
つい、俺も止まってしまう。なんで俺の目の前で止まるんだよ。不審者か?
怪しい人間の顔でも拝んでやろうと顔を上げると、すらりとした背の高い男が驚いたように俺を見下ろしていた。その顔に妙に見覚えがある。
ぱっちりとした二重瞼、色白な肌、線の細さに反して存在感のある整った顔。こんな時間なのにスーツは乱れていなくて、まとわりつくような湿気の中、やけに爽やかな雰囲気を全身から醸し出していた。この男の周りだけ風が吹いているような気さえする。
このわざとらしいくらいの爽やかさ。
「……あ、」
折本の同僚だ。以前、折本を持って帰ってくれた、あの爽やか男だ。
「おぉ」
相手も俺を思い出したのか、ぴんと人差し指を立てる。
「折本のダーリン」
「誰だよ」
「ハニー?」
「ちげぇよ」
なんだコイツ。見た目はまともなのに話が通じない。流石、折本と仲がいいだけあるな。
胡散臭いものでも見るように男を見上げていれば、爽やか男は俺を見下ろしてちょこん、と首を傾げた。あざとい仕草がよく似合う。
「こんな時間に何してんの?」
あ、ちゃんと日本語喋った。
「持病の徘徊癖が」
「痴呆になるには早いんじゃない?」
「うるせえよ、アンタは何してんだよ今帰り? 残業? ブラックなの? 折本はどこだよ。そんな会社、今すぐ辞めさせてやらぁ」
「何この子、初手から過激〜」
ハハハッ、とあくまで爽やかに笑うと、意味ありげな視線を寄越す。
「まあ折本、異動前で今忙しいしね。もうちょっとでホワイトに戻るよ」
「今はブラックなのかよ……」
「白って二百色あんねん」
「黙って」
白い歯を見せてきらり、と笑う。爽やか男は何事もなかったように歩き出すと、俺がついてくるのが当たり前だとでもいうように後ろを振り返った。
「あれ? 帰らないの?」
家に帰っても誰もいない。俺が帰る必要がない。そもそも折本はどうしているのだろう。仕事が忙しいのだとしても、まさか本当に職場に泊まり込むなんてことはないだろう。
「あんたはどこ行くの?」
「俺? 俺わ〜折本くんのお家でも行っちゃおうかなぁ?」
「来んなよアホ。あいつ帰ってねえし」
露骨に嫌な顔をしてしまってあっと思うが、爽やか男は相変わらずにこにこと爽やかに笑うだけだった。
「折本とルームシェアって楽しい?」
「俺がいても女は連れ込むし、酔うと吐くし、散々だよ」
「ふぅん」
人懐っこく細められていた目が、ふいに鋭くなる。会話が途切れて、気まずい沈黙が訪れた。街灯の下で、じゃあさよなら、なんて別れることもしないで二人立ち止まる。爽やか男に動く気配はない。
「つーか、あんた終電は?」
「俺最寄りここだし」
「いや、じゃあ帰れよ」
「まあまあ、ここで会うなんてすごいじゃん。真崎くん? だっけ? 俺、沢田。沢田爽」
「うわ」
「うわってなによ」
名前も爽やかなのかよ。というか、なぜこいつは俺の名前を知っている?
訝し気な視線を向ければ、沢田爽は眉を上げて親し気な表情を作った。整った顔立ちも、ミントの香りでもしてきそうな爽やかさも、一周回って胡散臭い。目を合わせていられなくて視線を逸らした。
「……あの、折本って元気?」
沈黙に耐えられずつい聞いてしまったが、深夜の静けさに気を遣ったせいで、なんだか弱々しい声になってしまった。わざわざ口を開いたことを後悔しかけた時、沢田がなんてことないように軽い声を上げる。
「あいついつも元気じゃね? 主にちんこが」
「それは同意だけど。まあ生きてるならいいや」
よくねえよ。帰って来いよ。
「あ、生きてるって言っても、だいぶぎりぎりな感じだけどね」
「えっ、折本が? マジで?」
「うん、だから精力剤渡しといた」
「いや、マジで何してんの……」
沢田は肩を竦めると面白そうに笑った。同僚のことを心配するというよりは面白がっているように弾んだ声音だ。爽やかな顔をして食えない奴。イケメンなんて嫌いだ。
沢田をきゅっと目を細めて首を傾げた。
「折本くんの愚痴大会でもする?」
「…………する」
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