2.Boy loses to ×××


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「風邪でも引いてたの?」

 数日ぶりにやってきた櫻は妙にくたびれた雰囲気だった。こんなに櫻がうちにやってこないのは珍しい。ここのところひどい嵐だったし閉め切った室内には風が窓ガラスを揺らす物騒な音が絶えなかった。それに加えて櫻も来ないものだから、この数日はやけに長く寂しく感じられた。

「春だからね。春ってだけで胃が痛い」
「あぁ〜それでか。僕もここ最近お腹の調子がよくないんだよね」
「は? なんで? なんか変なもん食ったのかよ。何食ったんだよ。それともなんだ、ストレスか? 医者に行こう」
「やだよ」

 どうやら櫻は本当に疲れているらしい。溜息を吐きだす音が聞こえてきた。きっと無意識に出てしまったんだろう。僕にも聞こえるほどの溜息を吐くなんて、櫻は滅多にしないことだ。

「ねぇ、だいじょうぶ? なんか元気ないよ」
「うん」
「認めるんだ」
「うん」

 じゃら、と聞き慣れない妙な音が聞こえた。ビーズをまさぐるようなその音がどこから聞こえてきたのか一瞬分からなかった。ふわりとした空気の流れがやってくる。ぬるいその空気とともに、唐突に櫻がどこにいるのか分からなくなった。

「櫻?」

 返事がない。
 なんだか馴染みのない広い場所に一人だけぽつんと置き去りにされたような感覚だ。この部屋は僕が人生で一番長い時間を過ごしてきた場所だというのに。ただでさえろくに見えない視界に五感さえも遮るような幕が下りたような感覚を覚える。

「櫻? ねえ、どこ?」

 気配を感じることができない。いつもなら手を伸ばせば届く位置に何があるか、全部感じることができる。櫻がどこに座っているかだって分かるのに。

 徐々に鼓動が速くなり、頭が真っ白になっていく。パニックに陥りかけていることに自分でも気づいた。

 夜盗は? 櫻がいるなら教えてもらわないと。あれ? 夜盗は……?
 気配がない。夜盗も櫻もいない。なんで? ここどこ? 分かんないよ、怖い。

「櫻!」

 無意識に口から出て行った言葉は自分でもびっくりするほどに大きく、もはや悲鳴のようだった。そんな自分の大声にハッとして我に返る。

 頬に当たる風。はためくカーテンの音。桐の匂い。櫻の匂いだ。

「いるけど」

 憮然とした櫻の声が耳に入った。少し離れたところにいる。妙に反響のないその声に窓が開けられていることに気がついた。

「……なんで返事してくれないの」
「ごめん。ぼぉっとしてた」

 気の抜けている櫻の声は本当に心ここに在らずで、珍しくぼんやりとしていた。黙ってしまえば気配もうまく感じられない。それがひどく不安で僕は探るように櫻のいるほうを見やった。

「窓開けてたの?」
「空気の入れ替え。俺が来た時に開けた」
「なんか、変な感じする」
「春だからね」
「そっか」

 ぬるくて穏やかに強い気味の悪い風だ。確かに冬のような皮膚を刺す冷たさはないし、夏のような息のつまる暴力的な熱風でもない。穏やかでむしろ心地いいはずの温度と気配。なのに妙に肌を撫でられるような居心地の悪さがある。

「春は好き?」

 未だに櫻がどこにいるのかいまいちつかめなかった。これも春の風のせいなのか。感覚を奪い鈍感にしていくような風だった。櫻がいることを確かめるようになんてことないことをわざわざ聞いてみる。

「俺は好きだよ」

 じゃあ嫌いだなんて言えないや。やっぱり僕も好き。

「どこが好きなの」
「花が咲くところかな。豪勢で逆に厭らしいよね」

 いったい櫻は何を見てそう言っているのだろう。僕の沈黙に櫻が付け足すように言った。

「今までまったく目立たなかったものが一斉に目立つようになるんだよ」
「……例えば?」
「さくらとか? 山が一面真っ白になる」
「もう咲いてるの?」
「咲いてる咲いてる。あと一週間くらいで満開かな」

 若干櫻の声が遠くなった。窓の外に向かって言ったのだろう。僕には見えない景色の話はあまり好きではないけれど、櫻の口から出るそれは嫌いじゃなかった。

 へぇ、そうなんだ。と口の中で呟いて頭の中で想像する。机の上の花瓶に刺した枝に手を触れた。ちょっとざらざらした手触りの枝を辿れば、ひんやりとした花弁が指先に触れる。鼻を近づけて匂いを嗅いでも梅や桃のような香りはしなかった。

「これが一面に? それってどのくらい?」
「花の部分が辺り一帯……鯉のぼりを毎年上げるだろ」

 どんなものなのか僕はよく分かってないけど、布で鯉の姿を象った筒のようなものだ。毎年干すのを手伝うけど、あれはかなりの大きさだ。端から端まで歩いて12歩。この部屋と同じくらいかもしれない。

「あれ一面が花だとする。それがこう、バーっと何十枚も続いてる」
「……それは、びっくりするね」
「はは、ほんとびっくりだよ」

 櫻の答えは感嘆とは違う、どうしてか呆れたような響きを持っていた。ぼんやりと櫻のいるほうを見ていれば、カラカラと窓を閉める音が聞こえてくる。窓が閉め切られた途端、動いていた空気の流れが止まった。聞こえてくる音は時計の秒針の動きのみだ。

 今日は夜盗が大人しい。すぐそこにいるのだろうが、どうしてか僕には気配を感じられない。布の擦れる音と畳のこすれる音がして櫻が前に座ったのが分かった。

「櫻、夜盗はいない?」
「んー?」

 くぐもった返事が聞こえると同時に、頭上から生暖かい液体がぼたぼたと垂れてきた。顔を上げれば潰れたとまとみたいな何かが頬に当たる。なんだ、そこにいたのか。いつになく夜盗の気配が溶け込んでいる。最近は言葉を覚え始めて見失うこともなかったのに。

 その時ふいに匂った香りにあれ?と思う。
 昔はひどい匂いだったけど、僕との関わりが増すにつれて夜盗から当初の匂いは消えていった。だけど、こんな匂いがしたのは初めてだった。

「……櫻?」

 嗅ぎ慣れた匂いに、頭上を見上げたままぽつりと言葉が出て行く。頬についた液体を拭って匂いを嗅ぎ、そのまま指先を舐めようとした。

「ここだけど!」

 慌てたような櫻の声と同時に手首をぐっと掴まれる。舌をちろ、と出したまま手のひらだけが櫻に引っ張られた。櫻は僕の前に座っている。でも、今この匂いは紛れもなく頭上から漂ってきた。

「お前は洗ってない手を舐めるな」
「あ……そうだよね。なんか、今日の夜盗、櫻みたいな匂いがする」

 鼻先を掠めた匂いは確かに櫻の匂いだった。僕の好きな匂いだ。間違えるはずがない。

「……あれじゃん? きっとなんか食ったんだよ」
「櫻の匂いがするもの? なんだ、それ」

 ふふ、と笑って夜盗に触れる。どうしてかさっきからぼたぼたと液体が垂れてくる。たぶん夜盗から出てくるものだけどこんなに途切れないのは初めてだ。ちょっと心配になって、夜盗の腕らしきものを握って揺すった。

 最近は僕が呼びかければ拙い返事をしてくれたのに、今日の夜盗は話してくれる気配もない。

「みんな調子が悪いんだね。櫻も元気ないし、夜盗も今日は大人しい。ねぇ夜盗に変なところない?」
「あーほら、こいつ……んっ、夜盗くん人より目が多い上に大きさも色々だからさ、花粉症も人間より辛いんじゃないかな」
「じゃあこれ涙だったのか」
「そうそう。泣いてる泣いてる」

 さらっと言うが、泣いてるなんて可哀想じゃないか。とりあえず手を伸ばして夜盗を撫でていれば、僕の身体のあちこちについた夜盗の液体を櫻が拭ってくれた。

「そういえば櫻」
「なに」
「……何か隠してるの?」
「…………え」

 僕はあてずっぽうで手を伸ばし、櫻の身体にぺたぺたと触れてみた。昔の面影はなく、触れるたび櫻の身体は大きく硬くなっていく。昔はこんな筋肉質じゃなかったのに。

「ちょっ、くすぐった……っ! な、なに? なに!?」
「あれー? うそだ、櫻何か持ってるでしょ」
「持ってる……? っ、ばっか、ちょっと」

 身体を捻らせて声を震わせる櫻に面白くなってわざと脇腹をくすぐっていれば、強い力で手首を取られた。思いの外その力が強くて肩が跳ねる。

「はっ……なんなの、マジで……」
「だって、どうせ僕には見えないのに僕から隠そうとしてるんだもん。気づくよ。何持ってるの?」
「……」

 そうだ、櫻の動く音が今日はやけにぎこちなかったのだ。僕からは一定の距離を保つようにしていたし、慣れてるはずの僕の部屋で不自然な動きをする。

 指摘してもはぐらかされるような気がした。なんだか今日の櫻はよそよそしい。僕の手を握る櫻の手が若干汗ばんでいて、沈黙に困っているのが分かった。

「……いや、うそ。何でもないよ。何でもかんでも知ろうなんて思ってないし。見えないと気になっちゃうだけ。僕は櫻がいてくれるだけでいいし」

 他に会いに来てくれる人間がいないものだから。なんて言うと、じゃあ櫻じゃなくてもいいのか、って話になってしまうかもしれない。そんなことはない。

「……」

 櫻の手が離れていく。強く握られた手首に力の余韻が残っていた。しばらく櫻は立ち尽くしていたが、やがてじゃら、と音がした。さっきと同じ音だ。頭上に夜盗の欠片が降ってくる。

「……最近、来れなくてごめん」

 櫻が僕の手に何かを握らせた。丸くて小さい、何か包装紙のようなものに包まれている。

「キャンディ?」
「……うん」
「ありがと」

 どれだけポケットに詰め込んでいるのだろう。じゃらじゃらと音が鳴るほど飴を入れてるなんて。体は大きくなっても意外と子どもっぽいところも残っているらしい。僕が笑えば櫻の雰囲気がいくぶん緩んだ。

 その時頭上からざらついた音が聞こえた。夜盗が何か話したがっているようだ。

「夜盗? どうしたの」
「……イ」

 サッと空気が緊張し、櫻が身構えたのが分かる。どうにも櫻と夜盗は相性が悪い。たぶん、櫻はまだ夜盗を怖がっているのだと思う。

「オマエ・・」

 夜盗の声はラジオの波長を合わせているような不明瞭さがあった。後ずさった櫻の手を掴めば、案の定、指先を激しくこすり合わせていた。

「櫻。その癖、皮剥けそうだよ」
「あ、いや……だいじょうぶ」

 声も手もずいぶん震えている。そんなに怖かったなら言ってくれたらよかったのに。夜盗は怖くない。何も心配することないのに。

 僕相手にこんなに動揺している櫻は初めてかもしれない。櫻の声は舌ったらずの幼い子どものようで、つい掴んだ手を両手でぎゅっと握った。

「大丈夫だよ。夜盗は怖くないって」

 握った櫻の手を持ち上げて、夜盗のいるらしいところまで持って行く。びっくりしてしまうくらい櫻の指先は震えていた。そんなに怖いのだろうか。

「大丈夫だよ。ほら、僕が触れても大丈夫でしょ?」
「うん……うん」

 櫻の指先がめり込むように夜盗に触れる。

「ほら、大丈夫!」
「っ!」

 ばちん、と音がした。何の音なのか分からなくて僕は少しの間、空を見つめきょとんとしてしまった。すぐ側にいたはずの櫻がいなくなってしまっている。

「オマエ……キライ」
「えっ」

 一瞬誰の声なのか分からなくて左右を見回す。肩先に温かい何かが触れた。ぬるぬるしたそれが僕の背中にべったりと張り付く。

「櫻……?」
「……夜盗さん、俺とは仲良くしたくないみたいだ」
「えっ、そんな、誤解されてるんだよ。だからそんな怖がることはなくって、」
「大丈夫」

 聞いたことがないくらい櫻の声は低かった。そろそろと櫻が動く音が聞こえる。そのまま部屋を出て行ってしまうように思えて慌ててあとを追った。

「櫻!」

 ふいに櫻の動きが止まって安堵したが、開きかけた襖を閉めるわけではなかった。思い出したように櫻がぽつりと呟く。

「お前さ、もくもくさん……って知ってる?」
「もくもくさん? 知らないよ、何?」
「いや、じゃあいいんだ。また来るよ」

 相変わらず低い声ではあったが、宥めるような響きがあって僕は櫻を止めることができなかった。




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