1.Boy meets ×××
← 4/21 →
「今日はなに?」
部屋に入るなり、パッと立ち上がった穂高がよたよたと駆け寄ってくる。自室ともなれば物の位置関係などすべて頭に叩き込まれている。穂高が何かにぶつかったりしないことは分かっているのに、どうしてもいつもヒヤリとしてしまう。
「ん、食べんなよ」
淡いピンク色の花をつけている枝を渡してやれば、穂高はすんすん匂いを嗅いだ。境内に植えてある桃の木は見頃こそ終えているが、まだ花びらは落ちる前だ。明日からの雨で散ってしまう前にと一枝切ってきた。
穂高は匂いを嗅ぎながら嬉しそうに鼻歌を歌い始めた。ご機嫌でなによりだが、目を離すとうっかり花や草を食べ始める癖がある。目で見て姿かたちを認識できないからか、昔からとりあえず何でも口に入れてみようとするのだ。俺も幼少期にうっかり手を噛まれて泣いたことがある。そのくらい容赦がない。
「いい匂い、梅かな」
「惜しい」
「じゃあ桃だ!」
「正解」
ふわふわと笑いながら机の上の花瓶に迷いなく枝が差される。昨日持ってきたヒヤシンスはすっかりなくなっていた。一日で枯れるようなものではない。使用人が取り替えているのかとずっと思っていたけれど。
「昨日の花もいい匂いだったな。春の花は気持ちがいいねぇ」
ぽたり、と花弁に液体が垂れた。花弁に蜜は見映えがいい。それが朝露のように光るのであればなおさら。
だけど実際に花を濡らすのはそんな美しいものではない。
視線を上げれば、まったくどこを向いているのか分からない巨大な怪物だ。今日も今日とてあまりにも多すぎる目玉がこちらを見ている。かたかた、と嫌な音を立てて口が開閉した。
胴体あたりについている目はゆっくりとあちこちを見回している。ぽたり、と奴の体液が垂れた。
「小さい花びらだね。ヒヤシンスよりもずっともろい」
指で花弁を弄りまくるせいで、穂高の手の中ではらはらと花が散っていく。花が落ちたのを知ってか、穂高の指が今度は枝をなぞり始める。
穂高の白い肌。細い指。ぼんやりとした目元。光を反射させる気泡ガラスの花瓶。
頭上の気配に冷や汗が流れた。独特な空気だ。部屋中が濃密な気配で満たされている。
「僕、この感じ好きだな。すべすべしてて桜よりも好き」
「桜よりも……」
「桜はまだ咲いてない?」
「ひどいな」
「え?」
机の上に散った花弁に付近の目が向いていた。どこからか伸びてきた触手がぺたりと花弁を取ると、むっしゃむっしゃと咀嚼を始める。
喰ってんのか。お前のもんじゃないってのに。
動かない目玉はこれ見よがしにいつまでも俺を見ている。ふいに沈黙がきりきりとした。ハッとして穂高に視線を戻すときょとんとした顔をしている。枝に触れていた指が戸惑ったように離れていた。
「……櫻のことじゃないよ?」
「え? あ、あぁ、うん」
「櫻のことは大好きだよ」
「それは……ありがとう」
いっそもっと言えばいい。バケモンの付け入る隙もないくらいに。
今にも死にそうな顔で穂高を見る俺と違って、穂高はあどけない笑顔を浮かべていた。眩しくて死にそうだよ。
「櫻も夜盗も僕の貴重で大切な友達だからね」
クソが。
「ヨトウくん、お花食ってるけどね」
「え!」
お前に持ってきたのに。
枝をきゅっと握って穂高が横を見る。そこじゃない。奴はもっとでかい。上だ。
触れることすら嫌なぬちょり、とした奴の体液が穂高の額に落ちる。穂高に見られないのをいいことにあからさまに顔を顰めてしまった。ぱっと穂高が上を向く。
ぽかん、と口を開いていたが、やがて「そうだったの……」と妙に何かに納得したような呟きが漏れた。
なぁるほど、と穂高がしきりに頷いている。俺は何も納得できない。何もかもに納得できない。
「もしかして、櫻が毎日花を持ってきてくれるのは毎日夜盗が食べちゃってたから?」
「そうかもしれないね。花は一日じゃ枯れません」
「しおれて自然に返るもんだと思ってたよ」
そりゃ、あったものがなくなってることしかあなた知らないものね。
「でもさ、今思ったんだけど」
にこ、と穂高が笑う。思いついた!というような笑顔だ。パッと明るくて日が差すような笑顔。自然と頬が緩んでしまうが、背後にたたずむ気色の悪い怪物が目に入ってしまって頬がひきつった。つくづく、穂高の目が見えていなくてよかった。
俺の百面相など知りもせず、穂高は意気揚々と俺の正面から少しずれた位置に向かって嬉しそうに話をしている。そっと穂高の正面に回った。
「出会った頃の夜盗はひどい匂いだったんだ」
今でもそんな見た目はしているけどな。でも確かにこのグロい見た目とは裏腹に奴は無臭なような気がした。
「腐乱臭って言うの?」
「それは相当だね」
「うん。僕は一度失神してる」
「殺せ刺せ、そんな奴引きちぎれ」
「え?」
「え?」
首を傾げた穂高に肩を竦める。そんな曖昧な仕草で感情表現をしてしまってから慌てて言葉で訂正した。
「いや、なんでもない」
「そう? それで、夜盗もだんだんその匂いがしなくなってさ。僕の鼻が慣れたんだと思ってたんだけど。でも櫻もそんな匂い感じないでしょ?」
「っすね」
「これ、もしかしたら花を食べてるからじゃないかな。櫻、いつも匂いのいい花を選んでくれるだろ? 食べたものに影響されてるのかも」
「ブリの養殖みたいだね」
「どういうこっちゃ」
俺が丹精込めて育てた花は全部化け物の胃の中へ。挙句、腐乱臭であればここまで幼馴染が懐かなかったかもしれないというのに、俺のおかげで無害なフローラルに育ってしまっている。
最低だ。めぐり合わせが最悪すぎる。
「今日は宿題持ってきた?」
「……持ってきた」
穂高はこう見えて案外鋭いから、俺が何もしないとすぐ気がついてしまう。形だけでも動揺を悟られないように鞄の中から筆記用具とプリントを取り出した。
視界の端ではくっちゃくっちゃとバケモンが花びらを噛んでいる。気が散って宿題なんかできるわけがない。
「今日は何の宿題?」
「作文」
本当は数学だ。
「へぇ、なんてテーマ?」
「君の友達」
「櫻の友達! 僕しかいないんじゃない?」
面白そうに穂高がケタケタと笑った。俺の友人ポジションは穂高の中で確固たるものとして築かれている。そうだといいが、もしかしたら本当に穂高以外に友達がいないと思われている可能性もある。それはちょっと心外。
視線を頭上に移した。人間を溶かして固めたみたいな雑な見た目をしている生き物は言葉を理解する様子もなく、花瓶に刺さった枝をかじり始めていた。どこを向いているのか分からない目玉も、きょろきょろと動きながら、その過程で俺を捕らえる。
「友達……ね」
お前、こいつを本当に友達だと思ってるの? いつ知り合ったの? いつも一緒にいるの? 俺に見えなかったのはなんで? 俺といる時もこいつ、同じ空間にいたの?
というかこいつは何だ。
化け物が危害を与える素振りは今のところ見せていない。強いて言うならその見た目こそが最大の害である。
もしかしたら本当に人間に無害なものなのかもしれない。だけどそんなはずがないだろう。認められるか? 俺は絶対認めない。もはや完全なる私怨だ。もしくは人間の持ち合わせる差別迫害の原理的思想。
これがただ自分の恐怖心と嫉妬から来る自分勝手な思いであったとしても、断固として認めない。このバケモノは早急に穂高から引き剥がす。
「穂高のことが知りたいな」
俺の知らないことは、まだたくさんある。
険しい顔をする俺を前に、穂高は恥ずかし気にふわりと笑った。
← 4/21 →