1.Boy meets ×××
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物心ついたころから僕の視界は大まかに明るい、暗いの二つだった。僕の世界の大部分を占めるのは音であり、感触であり、味であり、空気。
その中でも最も敏感だったのが音だった。
父の声、櫻の声、ばあやの声、使用人の声。
当人が気がついているのかはさておき、声にはその人の感情がつぶさに表れる。どれだけ上辺で繕おうが、内面的な変化を隠すことはできない。
落胆している、呆れている、疲れさせてる、面倒がっている、嘘を吐いている。
僕はそれらの感情を直感的に察することに長けていた。その反動でか、人と関わることは苦手だった。そもそも僕には出来ないことが多すぎたのだ。それなのに妙に察しが良いものだから生きにくい。
そんな生活だったから、僕は自分の安心できる空間を求めたし楽でいられる場所には執心していた。
その一つが櫻だ。
櫻には嘘がない。ちょっとぶっきらぼうな所はあるけれど感情を下手に隠さず、むしろ言葉にできないものをどうにか伝えようと思考してくれる。
櫻の言葉に含みはない。
目の見えない僕にとって、オブラートに包まれた言葉よりも櫻のようなまっすぐな言葉のほうが、たとえそれが僕にとって嫌な言葉だったとしてもずっと安心できた。
櫻は僕の先導者だ。視覚以外の方法で世界を知覚することを教えてくれる。
それでいて櫻にはどこか保護していたくなるような妙な不安定さもあった。
「落ち込んでるね」
そう思ったからそう言った。確か櫻がまだ中学校に入学するずっと前のことだ。
いつもは僕の目の前に感じる櫻の気配が、匂いが、このときはなぜだか離れていた。スン、と鼻を鳴らす音が微かに聞こえてくる。
風邪? いや、違う。泣いてる……わけでもないみたい。
「もっとこっちに来てよ」
「…………」
「嫌?」
「……やじゃない」
黙っていても部屋中に流れ込む櫻の感情にこっちまで辛くなってしまう。僕には櫻が心底傷ついているのが分かった。
「穂高、知らないだろ」
くぐもった声だった。それでも櫻の声に僕が嫌いな感情を上書きしたような気味の悪さはない。そのことに心地よさを覚えながら優しく声をかけた。
「なにが」
「幽閉されてる。三家の屋敷には幽霊がいる」
どうやら僕の噂らしかった。幽閉されているわけではないけど、そう思われていてもおかしくはないかもしれない。学校にも通わず、ろくに家からも出て来ない。一帯の人間からすれば存在すら疑われてしまうような人間だ。ちょっと過保護がすぎる父には僕も思うところがあったから、つい苦笑してしまった。
「姿を見たら呪われる。目が合ったら死ぬ」
「あちゃー櫻はお先まっくらね」
「ふざけるなよ」
「笑えばいいよ。ボケたんだから」
「……」
また、鼻道を空気が通る乾いた音がした。泣いてはいない。櫻はどんな顔をしてるんだろう。
「俺……」
珍しく声が震えていた。そのせいか、いつもより喉が開いているらしい。揺れる櫻の声はひどく美しい響きをしていた。
「お前の、こと……っ」
「なぁに」
ぷちん、と決壊するのが分かる。ゆらゆらと揺れていた櫻の不安定な感情のストッパーが完全に外れてしまったようだった。
「お前に会ったことあるって! 話したことあるって! そんな噂信じるなって! 俺言ったけど、だけどそんなん俺が強がってるだけに思われて、不幸が移るって無視されて」
ぼろぼろと出てくる出てくる。櫻がこんなに感情的になるのはずいぶん珍しい。押し寄せてくる感情の波に僕も困惑し、体の内側が熱くなった。室内の空気が櫻の声に応じて激しく震えているのを感じる。
「それで……それで……」
は、と櫻が息を飲んだ。やっぱり泣いているのかもしれない。言葉が痛い。もっと側に寄りたかった。身を乗り出して櫻に手を伸ばそうと思った時、がたん、と小さく音がした。襖が揺れる音だ。櫻は僕に触れられたくないのかもしれない。そんな部屋の端っこまで逃げるなよ。
……まさかお前が本当に僕のことを不幸を移す幽霊だとは思ってないだろ?
だけど拒絶されてしまえば僕も下手に動けない。仕方なく姿勢を元に戻したら、追い詰められたみたいなか細い声がぽつりと呟いた。
「それで……全部、嘘にした」
そんなこと、世界の終わりみたいに言うなよ。別にいいだろ。僕と櫻の仲を誰かに認めてもらわきゃいけないのか? 僕にはとってはそんなことより、ただこの時間を僕たちがこれからも過ごせることのほうが重要だ。ここに誰かが侵入してくることなどないのだから、櫻が何を外で言ったってそれは僕の前で問題にもならない。
僕の考えはきっと半分合っていて、半分間違っていた。
櫻は僕とは比べ物にならないほど、人との関係を築いてきている。それによってどんな摩擦が生まれ、自己にどんな変化が起きるのか。僕は経験していないから分からない。僕にとっては些細なことでも、その些細なことが人間関係に亀裂を入れることもあると櫻は知っている。
「穂高が俺の友達だってことも、全部嘘。みんなの言う通り三家の幽霊を見たら死ぬんだ不気味だ近づかないほうがいいって、俺も一緒になってそう言った!」
このとき僕は感情を爆発させる櫻の声を聞きながら「いいなぁ」なんて場違いなことを考えていた。
なんだか櫻がとても人間くさいものに感じたのだ。僕とは異なる感受性を持っている人間が、僕には解らない事象に悲しんで罪悪感を覚えて、そこから楽になりたくて苦しんでいる。
僕にはそれが思わず手を伸ばしてしまうほど綺麗なものであるように感じたのだ。映画や小説、そんなドラマでしか目にすることのない美しいフィクションが今まさに目の前にある。
「櫻……僕、本当にお前が好きだよ」
つい、と触れた指先が柔らかい頬に食い込んだ。少しひんやりとしていて湿っている。なんだ、やっぱり泣いてるじゃん。
指先に熱い雫が伝ってくる。流れる端からそれは櫻の頬で冷たくなっていく。つい我慢できなくなって、僕は櫻の頬を乱暴にむぎゅ、と掴むとそのまま噛みついた。
「っ」
昔、僕には解らないものや出来ないことがあると感情をコントロールできなくなり癇癪を起してしまう癖があった。見えない、理解できない。そのもどかしさが限界を迎えた時、手が出る代わりに噛みついた。
花が綺麗だとか、空が青いだとか赤いだとか。僕には理解できない美しいものを称えられても腹が立つ。綺麗なものは目に見えない。そうだろう?
「ぃ、痛いぃ」
涙声を上げる櫻の頬をぺたぺたと触り、塩辛い肌を舐める。少し窪んだ痕があるのはさっき僕が噛みついてしまったからだろう。どうにかして、この綺麗なものをもっと知りたかった。もっと、明確にイメージを。もっと深く、全部を知りたい。
「ほ、穂高ぁ、ごめ、ごめんっ」
僕の周りにこんなにも愚直に感情を吐露できる奴はいない。きっと普通は隠したがるんだ。だから僕は疲れてしまう。誰にも触れさせない感情の核のような部分を櫻は見栄で隠さない。
櫻の気配が好きだ。自然と側に寄ってしまいたくなるような、日溜りに好かれる影のような。温かいのにひんやりとしている。こんなにも柔らかくて、気持ちがよくて、頼りなくて、綺麗で。
だから僕が庇護しようと決めた。本人には内緒の話だ。
綺麗な景色は写真に撮るのだろう? 僕には見えないけど、そうやって手元に置くことでいつでも見返して感傷に浸る。心を落ち着かせる。同じ原理だ。
花の匂い、形、手触り、虫の声、森の音、鈴の音。耳に心地いい櫻の声。僕を否定せず、無知を呆れない。全部全部、取っておきたい。
あの時溢れた感情は、今思えば「愛おしい」と呼ぶものだったのかもしれない。胸がドギマギして、心が躍る。そんな日だったことを覚えている。今でも櫻に対する感情は変わらない。不器用で素直でどこか脆い。そんな綺麗な櫻。
そして心が躍ると言えば、もう一つ。
夜盗との出会いも、僕の中で欠かせない大事な出来事だ。夏の縁側で出会った友人。もう10年近く前になるだろうか。
得体の知れない彼のことを僕はずっと野山から降りてきた動物だと思っていた。だけど、夜盗ほど大きなものが僕の部屋にいても誰も気に留めない。ふいに匂う生臭さは感じていたようだけど、夜盗そのものの姿は認識していなかったみたいだ。
そのことに気がつくのにずいぶん時間がかかった。それに気がついてからは、僕だけが知っている友人、という特別さにわくわくした。
最初の頃、夜盗が現れるのは夜だった。蛍光灯の明るい光を遮り、ぬるい風を運んで来たら夜盗が来る。光を遮って夜に来る。僕は彼を夜盗と名付けた。
彼が現れるのは決まって僕が寂しいと感じている時や落ち込んでいる時だった。そんな時にあの大きく包み込むような温もりがあると安心する。
次第に僕は積極的に夜盗に話しかけるようになった。天気のこと、好きなご飯のこと、櫻が持ってきてくれる花の匂い、名前。目が見えないこと、友達が少なくて少し寂しいこと。運動をしてみたいこと、学校には一日だけ行ってみたいこと。
返事が返ってきたことは一度もないし、そもそも僕の言葉を理解しているのかも分からない。夜盗はただそこにいるだけだった。だけど一緒にいると櫻とはまた違った心地よさがある。
櫻には言えない、父さんにも言えない、そんな僕の中でも整理のついていない感情をどれだけ吐き出そうが、夜盗はただ受け入れてくれた。
櫻は僕が関わる唯一の外の世界だった。それに対して夜盗は内に向いている。なんと表現すればよいのか自分でも分からない。
僕と夜盗の関わりは他者との関わりのように思えないのだ。言葉のコミュニケーションを介していないからそう感じるのかもしれないが、例えるのならイマジナリーフレンドに近いものがある。
誰だって他人の胸の内は分からないものだ。こんな気分の時にはこうして欲しい、こんな言葉をかけて欲しい、そう思っていてもそれが思い通りになるわけではない。だから対話を通じて確かめ合う。理解する。
なのに夜盗の場合、まるで僕が作り出した僕のための空想上の生き物であるかのように、僕の求めている行動に従った。
そう、僕だけの友達。
無口な友人は僕の理解者で、とても優しかった。
だけど僕は、夜盗のことをまだまだ知らない。どこから来たのか。家族はいるのか。好きなものは何? 何を食べているの? どんな身体をしているの? 見た目は? 誕生日は? 僕のこと、どう思ってる?
もっと知りたい。言葉が通じたらいいのに。言葉を話せたらいいのに。自我はあるのか。夜盗が何を考えているのか、知りたいと思う。
櫻は僕の世界をぐんと広げてくれた。夜盗は逆に僕の中で他人にとって不可侵の領域を守ってくれる。
今の僕の大部分は、この二人の友人によって形成されたものだろう。
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