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岸沼の家に行くのは初めてだった。どの辺に住んでいるかをかろうじて知っている程度で、詳しいことはよく知らない。というかそもそも僕たちは一緒にいてもそんな個人的な話をしなかった。
学校からそこまで遠くない団地まで歩き、辺りの団地群の中でも一層古い棟に入っていく。建物の入り口はなんだか防空壕じみた暗さがあった。郵便受けには過激な文言の張り紙が貼ってある。入りきらない郵便物が地面に落ちていた。コンクリートの隅にはクモの巣が張られている。お世辞にも綺麗とは言えない。
「岸沼、こんな急に来ちゃってよかったの?」
手にしたスーパーの袋ががざがさと音を立てる。前を行く岸沼は三階まで上がると、鍵も出さずに玄関を開けた。まじか。防犯という概念を知らないのか。
「いーのいーの」
「お家の人とか」
「あーいない。たぶん。上がって」
たぶんってなんだ。大丈夫なのか。岸沼に対する不安と、僕のちょっと厄介な正義心が顔を見せる。玄関は暗かった。靴が散乱している。岸沼のローファーが一足と、派手なハイヒールがいっぱい。僕は見慣れない女性の靴をなるべく見すぎないようにして靴を脱いだ。
ここで暮らしてるのか?
狭い部屋だった。あたりに投げ捨てられているのはやっぱり女性ものの服や下着で目のやり場に困ってしまう。
岸沼は僕の驚愕した表情になど見向きもせず、玄関からすぐのキッチンでヒビの入ったガラスのコップに牛乳を注いでいた。
「ごめんねー。俺んちお茶とかないんだー。みんな牛乳のが好きなの」
「あ、そ、そう」
裸の男性のポスターが貼ってある。誰の趣味だろう。思わずよろけた先で蹴倒してしまったゴミ箱から中身が散乱する。なんかとんでもないゴミがいっぱい出てきた。使用済みのコンドーム。なんてこった。想像もしたくない。岸沼が使ったのか? まじなのか? お前、こんな風紀のない環境に生きてるのか?
「き、岸沼……」
「あ、もー。燃えるゴミの日今日だったって言ったのに、やっぱり出してないし。ごめんね、川邑くん。ほんと、俺の家族誰も片づけできねーんだよ。俺もだけど」
「それ、」
「え? あ、ごめんねごめんね。こんなもん見せちゃって。母親が奔放だと困っちまうもんですよ。はは」
いや、何笑ってんだよ。僕からしたら異常だ。あんなに女性にも性にもまるで興味を持っているように見えない岸沼も、ひょっとしたらこの家で……
「どした? なんか川邑くん顔が赤い。鼻血でも出そうな顔してる」
「お、おまえ……」
目が回ってくる。岸沼が笑っていた。含みのある顔で僕を見て笑う。僕の手からスーパーの袋が落ちていった。セロリが袋から逃げる。とてもじゃないけど、料理なんてできる台所じゃない。
「そんなびっくりしないで、川邑くん。あ、それとも同情してる?」
僕の予想は当たっているはずだ。岸沼の家族はやっぱり岸沼にご飯を食べさせてはいない。誰を頼るべきなのだろう。いや、誰も頼りたくない。岸沼は助けを求めているだろうか。いや、笑ってる。純真無垢なんてほど遠い。暗い部屋も相まって岸沼の影が長く見えた。夕方、今日は曇天だ。窓から差し込む光は灰色だった。
「するべきことは同情じゃなくて、君の親を責めることだよ」
「君は本当にいい奴なんだけどな」
なんとか回らない頭で絞り出した答えを簡単に岸沼が笑う。どこか皮肉な調子だった。僕は何かを間違えただろうか。岸沼がうふふと笑う。魔性の笑みだった。
「あのね、俺、淫魔なんだ」
はい? 聞いたことのない単語にぽかんとしてしまう。いつの間にかすぐ側までやってきていた岸沼が僕の腰に手を回す。顔が近い。整った顔がすぐ側にあった。僕の知ってる岸沼じゃない。
「淫魔なの。そういう家系なの。だからあんまりびっくりしないで。普通のことだよ。ね? だからちょっと、協力してよ」
囁くような声に変わっていた。空気が変わったことに気が付く。茶の間が凍るタイプの空気だ。テレビ番組だったら即座にチャンネルを切っている。僕の一番苦手なものだ。濃密な岸沼の雰囲気に圧倒されて、どんどん、岸沼の顔が近くなる。片目の眼帯に前髪がかかっていた。
額がぶつかりそうになった時、僕は思わず岸沼の体にアタックして逃げ出していた。
・・・
やっぱり様子がおかしかった。ぐるぐるとそんなことばかりを考えてしまう。
ぐるぐる、ぐるぐる。なんだか温かい。モーターの回転だろうか。摩擦によって発せられた熱。僕の脳みそも回転によって熱を発しているのかもしれない。日向ぼっこでもしているくらいの暖かさだ。
日向ぼっこが好きだ。そう思えば、本当に太陽の匂いを感じた。目の奥に感じる太陽の気配に、意識を取り戻すのがもったいない。それでも一度浮上した意識のままに目を開くと、そこは見慣れない天井だった。いや、ちょっと見たことがある。
カラ、と小さく音が鳴る。音の聞こえた方向を見るとカーテンが風にそよいでいた。温かい午前の光が差し込んでいる。窓の外には、背の低い常緑樹が塀のように並んで植えられていた。
鳥の声、薬品の匂い、風がそよぐ。微かな水音。
保健室だった。
あれ? と思う。僕は倒れでもしたのだろうか。生まれてこのかた、小学校でも中学校でも、保健室の世話になったことはない。
体を起こそうとしたとき、なぜか下腹に違和感を覚えた。何気なく視線を落として、時間が止まる。
ずっとぴちゃぴちゃと水音がしていた。僕はその音を何も不審に感じなかったけど、あろうことか、岸沼が僕の性器に口をつけている音だった。
「うわあぁ!」
思わず飛び退って、後の壁に頭をぶつけた。思いのほかすごい勢いでぶつけてしまって頭を抱える。岸沼が舌打ちした音が聞こえた。舌打ち? 岸沼が?
いろんなショックに言葉が出ない。顔を上げて岸沼を見ると、岸沼は屈んだ姿勢のまま、ベッドに顎をのせ、不満そうにフンと鼻を鳴らした。
「待って、待って、うそでしょ。君何してるの」
「川邑くんの優しさに与ろうと思って」
「何の話!?」
「いいじゃん、別に。ただの夢なんだし」
「意味分からないよ」
確かに最近夢の中に岸沼がよく出てくる。これも夢? いや、だとしても何をしてるんだ。
岸沼は唐突に腕を伸ばして僕の頬に触れた。思えば僕は毎日のように岸沼と昼を食べているけれど、こんな風に触れられたことは一度もない。
岸沼の手が僕よりずっと大きいことは知っている。指が長く中性的に見えるのも、爪が綺麗に磨かれていることも知っている。頬に触れているはずの岸沼の手は意識するほど、感覚が消え失せていった。
岸沼の綺麗な指が僕の頬をぎゅっとつねる。けっこうちゃんとつねられた。仄かに痛い気がしたが、目を瞑るほどのものでもない。本当に夢なのか?
「どうだっていいでしょ」
岸沼が僕を小馬鹿にするように笑った。いいわけあるか。わざわざ僕の夢の中で何をしてんだよ。岸沼の手を振り払う。僕は自分の意思で動けた。これが明晰夢というものなのか。
「じっとしてよ、川邑くん。夢でも気持ちいいのは変わらないからさ。それとも女のほうがいい?」
「待って、何の話?」
ベッドに乗り上げてきた岸沼がどんどん近づいてくる。おでこがぶつかるんじゃないかというところでピタリと止まった。至近距離で澄んだ瞳が僕を見つめる。
「昼にも言ったじゃん。ね。俺、淫魔なんだ」
「なにそれ」
「は? まじかよ、そっから? もしかしてほんとに知らないの?」
岸沼は大きく溜息を吐き出した。少なくとも一般常識ではないと思うのだけど。後でお母さんに聞いてみようか。それか仲のいい現代文の先生にでも。岸沼がキッと俺を睨んだ。
「だからさぁ。俺は川邑くんの精液が欲しいの」
「えっ……キ、」
「今キモって言いかけただろ」
「いや、言ってないよ」
「言えばいいよ。別に気にしないし」
「いや、思ってないから」
そんな拗ねたみたいな顔するなよ。何も岸沼のぶっ飛んだ言動は今に始まったことじゃない。今さらそのくらいじゃ僕は引かないぞ。
「どうせキモイですよ。俺なんて偏食だから、文化部で背低くて肌綺麗で脂っこいもの食べなくて性に鈍感な童貞の精液しか飲めないし」
「キモッ」
その具体性はキモイ。
本格的に落ち込み始めた岸沼は夢に出てくる岸沼といえど、ちょっと同情をしてしまうほどだった。どうにもこの岸沼は現実の岸沼よりも人間味が強い。普段の岸沼だったらへらへら笑って意味の分からないことを言って僕を置いてけぼりにするくらいで、こんなふうに落ち込んだりはしないだろう。
「えっと、その。いんぽ? ってやつは精液飲まないと死んじゃうの?」
「誰がインポだよ。超巨チンだよ。ビンビンに勃つよ。ちんこで殴ったろか?」
すごい下品だ。でも必死だ。食い気味に爛々とした目で突っ込んできた岸沼にとって、そのくらい精液は重要なのだろうか。
「じゃ、じゃあ自分の精子とかどう?」
「いらねぇよ」
ああ、岸沼の口がどんどん悪くなっていく。悲しい。
「えーっと、じゃあ……」
「川邑くん。淫魔にとって精子は人間の三大欲求の一つみたいなもんなんだよ。しかもそのうちの8割くらいを占める」
「そんなに死活問題なの?」
「そう。つまり君の精子が一人の命を救うってこと」
「僕が出さなきゃ岸沼は死ぬってこと?」
「そう!」
ガシッと岸沼は僕の手を掴んだ。勢いあまって鼻がぶつかりそうなほど顔が近づく。わぁ、きれいだなーと思っていたら、ガシッと今度は思い切り性器を掴まれた。思わず体がびくりと飛び跳ねる。急所をそんな風に握るんじゃない。岸沼は聞いちゃいなかった。
「なんでもできます! フェラもセックスも全部できます! ケツも使えます!」
ケツを使って何をするんだと思ったが、とりあえず岸沼の気持ち悪いくらいの勢いにおされて、僕はすでに半分ずり下ろされていたズボンに手をかけた。かけざるを得なかった。
「でも僕にできるかなー」
「オナニーくらいさすがの川邑くんでもしてるでしょ。俺も手伝うよ。人に触ってもらった方が気持ちいいから」
「そうかなー」
一転して機嫌がよくなった岸沼が嬉しそうに笑った。目の奥が笑っていない嘘くさい笑顔じゃなくて、もっと僕のおにぎりを食べたときみたいな笑顔だ。そんな笑顔に複雑な気分になる。精液なんぞになんて負けたくない。
喜々として僕の性器を握り込んだ岸沼が、そのまま優しく手を上下させた。最初は優しく、それでいて早い。確かに岸沼の動きはかなり手慣れたものだった。頬はつねっても痛くないのに、伏し目になった岸沼の整った顔はやけにはっきりしているし、岸沼の手の感覚も僕はしっかりと感じ取っていた。
本当に夢なのかな。最近はなんだかこんな夢ばかり見ている気がする。
保健室に僕ら以外に人気はない。校内の生徒の気配も感じない。それでも、カーテンに仕切られたこの空間でこんなことをしていることに、やっぱりちょっと変な罪悪感があった。
岸沼の手の動きが徐々に変化をつけたものに代わってくる。不規則でいて、確実な動きをちょっと感心しながら見下ろした。
淫魔も大変だなーなんて思っていれば、俯いて震えていた岸沼が唐突に手を離した。どうかした? と声をかけようかと思った時、岸沼が拳を握りしめて僕を見上げた。
「………だからなんっでだよ‼」
「うわっ、なんだよ。急にデカい声だすなよ。びっくりしたぁ」
「なんでまったく勃たないんだよ!」
「あーいや。僕、もとからなんか苦手なんだよね」
「オナニーが!?」
「いや、なんだろう」
まったくしないわけじゃない。僕は真面目なことが取り柄だから、保健の授業だって真面目に受けていた。周りの男子は、にやにやしたり茶化すことで妙な恥じらいを誤魔化していたように思う。僕は正直そんな感情すら持っていなかった。興味がないのとは違う。むしろ僕もちょっとはそういう動画をネットを頼りに覗いてみたこともある。
なんというか、グロいなと感じた。
女性の陰毛とか、赤黒い性器とか、白濁とした液体とか、そもそもそんな行為にふける男女の肉体が僕にとっては、「なにか違う」と感じられた。
少し考え込んだ僕を見上げて、岸沼が髪をぐしゃりとかき回す。
「川邑くん……困るよ……俺、そろそろ死にそうだよ。いや、もう何回か死んだよ……もう君以上に美味しそうな男子高校生なんていないんだよ……」
そりゃ岸沼にとっては命がかかっているのだ。僕は以前自分でやった時のことを思い出す。
「うーん……じゃあ」
「ほ、ほんとうにこれでいいの?」
岸沼は不安そうな声で聞いた。目を隠されているからだろうか。こんなに頼りなさそうな岸沼は初めてかもしれない。ネクタイの目隠しも、包帯による手足の拘束も、ちょっと力を入れれば解けてしまうようなそれを、岸沼は解くことなくじっとしていた。
僕はそんな岸沼を見下ろしながら、そっと頬に手を伸ばした。触れるか触れないかくらいのところで撫でるようにしてみる。岸沼は僕の気配にびくりとして、不安そうに眉を下げた。小さく開いた唇が何かを言いたそうに震えている。
「……」
怯えているのがわかった。夢の中の岸沼はどうにも人間らしい。安心させるような言葉をかけるべきなんだろうけど、なんの言葉も出てこなかった。
「川邑くん。あのさ、怖いから何してるか口に出してくれない?」
「なんでそんな恥ずかしいことしないといけないの」
「いや、だって、この状況で川邑くんが包丁とか持ってたら俺絶対刺されるじゃん」
「なんでそんなことするんだよ」
じっと岸沼を観察する。本当に夢だろうか。
不信感に岸沼にぐっと顔を近づけた。至近距離で見てもその肌にはシミもそばかすも見当たらない。今時、こんなシミ一つない肌の人間なんているだろうか。
あんまりにも綺麗すぎてむしろ不気味にすら思えてしまう。そっと触れてみる。柔らかかった。僕の指は少し乾燥してるみたいだった。こんなにかさついた皮膚じゃなかったら、きっとこのもっちりした岸沼の皮膚をもっと気持ちよく感じただろう。
人工物を疑うほどの透き通った白。大理石のようで、それでいて血の通った温かさと柔らかさ。人間の体でしか成しえない生々しさ。
赤い唇はなぜか濡れて見えた。クラスの女子たちはよく色のついたリップを唇に塗っている。作られた艶は触ればべっとりと、ねっとりしたものが指につきそうに感じる。
でも岸沼は違う。果物の断面のような瑞々しい唇だ。その唇が僅かに震える。
窓の外からは陽射しが入り込んでいた。肌の白と唇のツヤはよく映えた。岸沼の唇が瞬間閉じ、喉仏が小さく上下する。
妙な感覚が体に走り抜けた。それは最終的に下腹に集結して、ぞくりとした刺激になった。目が離せなかった。どくん、と体の内側で巨大な何かが波打っている。
ネクタイの色が黒だったらよかったのに。
指定のネクタイは緑だ。この陽射しと岸沼の肌には、きっと黒が一番映えたはずだ。
「っ……」
大人しくなった岸沼は小さく息を飲む。
頬に触れているだけだった手が興味のままに降りて行く。頬を撫で、神聖なものに触れるように唇に触れた。指の先に感じるのは、僅かな湿り気と岸沼の吐息。
ゆっくりと、確かめるように手を動かす。首は細かった。でも流石に片手では締められない。ゆっくりと肌を伝って、突き出た喉仏を撫でてみる。岸沼の体が硬くなるのを感じた。く、と少し強めに押してみる。指先に感じる喉仏が動いて、岸沼が苦し気に顎を上げた。やけにかわいらしいうめき声とも、空気を飲む音ともいえる声が喉奥で鳴る。
普段見下ろすことのない美しい生き物をじっと見下ろす。僕はあんまり周囲の音が耳に入らなくなっていた。岸沼の肌に触れながら、岸沼の全てを観察しながら、陽の光に金色に輝く産毛を見ながら、荒い息がこぼれる。
気が付けば片手が自分の下腹へ伸び、無意識に上下に動かしていた。しっかりと昂った性器を認知したのは久しぶりかもしれない。さっき岸沼に触られていた時とはまったく違う感覚だ。
岸沼がずっと不安そうに僕を見上げている。綺麗な瞳は今は見えない。迷子になった子どもが親を探して先行く大人を見上げるような、そんなか弱さになんでかひどく興奮した。
あっという間に昇りつめて、ハッと気がついたのは岸沼の顔に白濁がぶちまけられているのを見た時だった。
「……」
急速に、音が戻ってくる。自分の激しい息遣いにまだ頭が朦朧とした。
岸沼は唇を妖艶に開くと、ピンク色の舌を出して、唇の端にかかった精液を舐め取った。岸沼の口角がじんわりと上がっていく。口元が綺麗な三日月型になって、白い歯が覗く。
快感とも違うような、なんとも言えない感覚が遠ざかっていっても、体の内側ではいまだに何かがうごめいているような感覚だ。
僕はゆっくりと岸沼の目を覆っていたネクタイを解いた。まぶたを閉じていた岸沼が、光に慣れるようにゆっくりと目を開く。
目の前の僕を見上げると、その瞳がゆっくりと弧を描いた。瞳の奥にハートが見える。あのヘーゼルとアンバーが混ざったような瞳がどろりと溶ける。顔面を精液まみれにしながら、岸沼は僕だけを見つめて恍惚と笑った。
あ。なんかこれ、気持ちいいかも。
岸沼を見下ろしながら、僕の頭の片隅はそんなことに気がついたみたいだった。
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