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今日の岸沼は異様に輝いていた。それはいつもなのだけど、今日はことさらぺっぺか光っている。
おまけに調子がいい。機嫌がいい。ちょっと前まで情緒不安定だったのに、にこにこと笑みが絶えない。常日頃、岸沼は楽しくて笑っているのか、ただ表面的に笑顔を作っているのか、それが感情の機微に沿った表情の変化なのかがわかりにくかった。そんな岸沼がちゃんと笑顔というものを浮かべている。浮かれている。鬱陶しかった。
「川邑、大変だね」
休み時間、僕のところに来ていた文芸部の羽柴が教室の入り口で手招きしている岸沼に気づいて労わるように言った。
「岸沼くんもなんで川邑みたいな子に絡むんだろ。友達いないのかな」
「まぁ友達はいないよね」
「変なことされてない? カツアゲとか」
心配してくれるのはありがたかったけど、カツアゲという語彙にちょっと笑ってしまった。僕ら、今までの人生で真面目に地味に生きてきたから、ヤンキーだとか不良だとかを知らないのだ。
「カツアゲはされないよ。岸沼は話してみると、やっぱり変だよ」
変なのかよ、と羽柴が突っ込む。見ればわかるよね。
「でも害はない」
「へー。あの人一人で歩いてる時もにやにやしてたり、自習中にぼそぼそ呟いてたりして怖いんだよなー。急に笑い始めたりもするし」
怖がられ方がだいぶ独特だ。ハラスメント気質の先輩のほうが、同じ怖いでもマシだった。確かに先輩はまだ同じ生き物という気がする。でも岸沼は違う。あれはもう理解の範疇を越えた別の生き物のように感じてしまう。そりゃ怖いに決まってる。宇宙人のようなものだ。
「呼んでるね。行ってくる」
「うん、じゃあね」
文芸部の放課後の活動について連絡しに来た羽柴は、岸沼の所へ行く僕を興味深そう見送った。
「岸沼、なんかいいことあったの」
肌つやがいい。昨日はご飯にありつけたのだろうか。
「うん? 久しぶりにメインディッシュを食べた気持ち」
「よかったね」
ほっとする。ランチバックを握る手に少し力がこもった。
おにぎりだけじゃなくて、もっと肉とか魚とかも入れようか。卵料理もいいかもしれない。半熟卵なんかを作ったら喜んでくれるだろうか。岸沼の好きな料理はなんだっけ? 料理というか素材だった気もするけれど。
食にはもう少しお金をかけてもいいよね。毎日おにぎりじゃ味気ない。具のバラエティばかりが増えても気分は上がらないだろう。味噌汁なんかをつけてもいいかもしれない。汁物一つを加えるだけで満足感が倍になる。
「何食べたの?」
「えー?」
岸沼がきらきらした視線をよこす。なんだか、妹が小さな頃を思い出す視線だった。そうか。岸沼に感じる既視感は幼児の相手に近いものがある。
「秘密!」
くふふ、と笑う。本当に美味しかったんだろうな、とその表情で分かる。何を食べたんだろう。誰と食べたんだろう。家族と? お母さんのご飯? それとも外食?
よかったと思ったのは本心だ。それなのに、どこかモヤっとする気持ちもある。それに、秘密にされた。
いつもは大して気を遣うこともなく会話できるのに、咄嗟に何と言えばいいのか分からなくなってしまった。嬉しそう。楽しそう。溌剌としている。いつもの岸沼にはやっぱりなにかが欠けていたんだ。僕には埋められない何か。
廊下を並んで歩きながらぼんやりと考えた。ぼんやりしすぎて、人とぶつかった。すれ違いざまに僕を見下ろして、そして岸沼に気づいてうげ、と慌てて前を向く。岸沼は鼻歌まで口ずさんでいる。ちんたら歩く僕を振り返って、眩しい笑顔を見せた。
「川邑くん、今日は? 今日のおにぎりの具は何?」
変な奴だよな、と思う。でも、僕は嫌いじゃないし、自分でも意外なほど岸沼のことを考えてしまう。だからだろうか。岸沼にとって僕は学校を卒業したら記憶の彼方に忘れ去られるような小さな存在でしかないのかもしれないという可能性がふと浮かんだ時、視界がぐにゃりと曲がるような妙な衝動を微かに感じた。
「……おかかと梅と昆布」
「やったぁ! お茶が合いそう」
まぁいいか。別に自分のことじゃないし。岸沼の話だし。
「自分も読んだことない本じゃないとだめ?」
「うーん。各自のおすすめ本はもうすでにやったし、次は全員初読みのほうがおもしろいかなって」
今日は活動日ではなかった。来月の文芸部の課題図書を決めるために僕と羽柴だけが図書室に来ている。
図書室は毎日開放されているが、テスト前でもないからか、人はいなかった。適当に棚を回って面白そうな本を手に取る。毎回題材にするのは小説だし、ミステリーもコメディも恋愛も、ホラーも純文学も、一通り取り上げてしまっている。趣向を変えて新書や評論でもいいのかもしれない。
棚を移動してみたが、僕が興味ないからかどれも似たり寄ったりに思えて食指が動かなかった。羽柴を見て見ると、席に座って本を読み始めている。もう今日の目的を忘れていそうだ。
もう一つ奥の棚に移動してみた。図鑑などのコーナーらしい。ここは危ない。僕も目的を見失ってしまいそうだ。ああ、ほら。勝手に手が動く。
手に取った本は『幻想世界の異形たち』という本だった。分厚いハードカバーに重々しい明朝体。これだけでもう美味しい。
マニアックな本だからか、あまり借りられていないのだろう。表紙も中のページも新品のように綺麗だった。目次を開くと、ユニコーンとペガサスの違い、ケンタウロス、サタンなど聞き馴染みのある西欧の異形の名前が並んでいる。悪魔の解説の豊富さに感心してしまう。やっぱりアニメや漫画などでモチーフになるだけあって需要も高いのだなと思う。
順に追っていきながら、ふと指が止まる。
「……淫魔」
字面からして卑猥だ。何をするんだろう。
僕も年頃の人間だ。他にも気になる異形はたくさんいたけど、まっさきに本文のページを開いたのは『淫魔』のページだった。
『別名は夢魔』
別名はなんだか素敵な響きだ。それでいいじゃん、と思ってしまうが、わざわざ淫魔などというのであれば、メインは夢じゃないのだろうか。
『女性型はサキュバス、男性型はインキュバス』
性別があって男女で呼び方が違うらしい。正味どっちだっていい。
「……実際には同一?」
ややこしくなってきた。僕はあまり頭を使いたくない。馬鹿だから。
「生殖能力がないため、女性の姿で夢に現れ人間の男から精液をもらい……男性の姿で女性の夢に現れ、人間の女性を孕ませる……」
ミツバチかよ。挿絵も羽が生えてるし。これ、日本の少子化を救うんじゃないか? 精子媒介昆虫ってこと?
「悪魔も大変なんだなー」
子孫繁栄のために男になったり女になったり。そもそもなんのために生きてるのかわからないけど。
いや、そんなことを言ったら生物全体、子孫を残すために生きているということに収束する。よくよく考えれば奇妙だ。生まれた瞬間死に向かって、どうせ死ぬのに種を絶やさまいと生殖する。今絶えなくてもいつか絶える。サラリーマンが社会の歯車なのであるならば、人類は、生物は地球の歯車でしかないのかもしれない。
生殖本能というものを感じたことがない。生存本能は感じている。生殖本能は性欲と同義なのだろうか。それも違う気がする。たいていは気持ちよくなりたいという思いが先行しているように思う。僕は大してわからないけど。
岸沼なんかはもっと謎だ。周りを見てみろ。男子が集まれば女子の話になる。もっと下世話な話にだってなる。喜々として話すその空気についていけなかったとしても、その場に居合わせたことはあるはずだ。まっさきに童貞など捨てていそうな奴がまったく興味がなさそうだ。
なんとなく、岸沼と並ぶ女性を想像してみる。あまり同い年くらいの女子では想像ができなかった。似合わない。岸沼に似合うのはもっと大人な感じで色っぽい感じの女性だろう。
とはいえ、そこから先など予想できない。
本をめくってみる。ゴシックなイラストは、淫魔と呼ばれる悪魔が人間の女性を押し倒しているところを描いていた。どちらも一糸まとわぬ姿だ。思わず顔を顰める。
「うーん」
ちょっと嫌だな。背筋がぞわりとする。
やっぱり岸沼には今のように幼児のような純粋さでいて欲しい。ただでさえ理解できない存在なのに、岸沼が女子と付き合うようになったらもっと僕には理解できなくなってしまう。
ぱたん、と本を閉じた。そのまま棚に戻そうかと思ったけど、このままだとなんの収穫もなしになってしまう。
課題図書にするにはあまりにも分厚く高価であるが、紹介するネタにはなりそうだ。僕はこの異形の図鑑を持って自習スペースに戻った。羽柴が本から顔を上げる。
「なんかいい本あった?」
「うん。僕は悟りを開いた。生物の存在意義と生殖本能について、その無意味さに気がついたよ」
「壮大だな。よかったね」
興味なさそうに言うと、羽柴はもっとどうでもよさそうに「腹減ったー」と言った。
「羽柴は?」
お前、ただ読みたい本読んでただけだろ。そう言う代わりに聞いてみれば、羽柴は脇に避けてた本を数冊出した。
童話、お金に関する評論、人の精神について分析した科学系出版社の本。どれもこれまでとは趣向も違って、かつ議論も活発になりそうだ。
「ボリューム的には童話の原作かな。でも最近メンタルヘルスの講演あったしこっちでも面白いと思う」
「うん、いいと思う」
結局いつだって、要領が悪いのは僕だけだ。
帰り道に岸沼を見かけた。腹が減ったとうるさい羽柴を連れて駅前のラーメン屋に行く途中だった。
「あれ、岸沼くんじゃない?」
僕の視野は基本的に前方1メートルのみなので、羽柴に言われるまでまったく気がつかなかった。羽柴の視線の先に目をやると、確かに岸沼が見知らぬ女性と腕を組んで歩いているところだった。
「あれ絶対高校生じゃないよ」
派手な女性だった。長い髪は腰まであり、くるくると綺麗にまかれてる。女子高生と同じくらい短いスカートは真っ赤で、肌の透けた黒のタイツを履いている。上着も黒だ。一見、品がなさそうに見えてしまいそうなその派手な格好も、スタイルのよさと雰囲気のおかげでむしろレッドカーペットを歩く女優のように見える。
明らかに普通の雰囲気じゃない。普通ってなんだよとも思うが、オフィスで働いているような人には見えなかった。
「すっげーな、こんな学校の近くで」
隣で羽柴が関心したように呟く。僕らはちょうど岸沼たちの後ろを歩いていた。女性は高いヒールを履いているから、背の高い岸沼とちょうど頭が並ぶくらいだった。
岸沼は素行こそ絶妙に際どいが、制服を着崩したりはしない。こうしてただ歩いていると、品のいい高校生と芸能人のオフショットのような雰囲気がある。むしろ常にふらふらと目についたものに足を止めて行動に落ち着きがない岸沼が、あんなにおとなしく歩いているのが珍しかった。
「俺はエンコーと見た」
「エンコー?」
「援助交際」
「何するのそれ」
羽柴がマジか、という目で僕を見る。
「セッ……えーっと、えっちなことしてお金もらったりするやつ」
「え、そんなん誰が得するの? じゃあ岸沼はお金払ってあのお姉さんとセックスするってこと?」
「そっちじゃないよ。どちらかといえば岸沼くんがお金もらうほう」
「なんで!?」
羽柴が口元を押さえて笑っている。
「あ」
僕らが話している間に、岸沼たちはチェーンのファミレスに入っていった。その後ろ姿を見て、僕は無意識に眉をしかめていた。
「……わかった、援交ってやつはあれだね。ご飯を奢ってもらえるんだね」
「そうそう」
だから今日は肌つやがよかったのか。岸沼はきっと援交を始めたばかりだ。
「ちなみにそれってあんまりよくないやつ?」
「取り締まりされてるよ」
僕はまだ二人の後ろ姿が気になったが、羽柴は眼鏡を上げてラーメン屋の方向に向かいだした。
「課題図書は売春の背景とかにしたほうがよかった?」
「僕そんなに常識ない?」
「うーん……箱入り感が強い」
男に言うにはどうなんだそれ。
店前が白い湯気でもうもうとしているラーメン屋の暖簾をくぐる。やたらと元気な声が店内を飛び交い、慣れたように食券を買ってカウンター席につく。ちらほらと同じ制服を着ている人がいた。
味噌味のスープに厚いチャーシューと大量のメンマに半熟の卵がのっかって、ネギが散らされたラーメンが運ばれてくる。僕らは割りばしを割ると、無言でラーメンをすすり始めた。
やっぱり男子高校生にはこれでいいと思う。僕はさっきの女性の後ろ姿を思い出して顔を顰めた。
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