4話 シークレットダーリン
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「……帰ろっか、久世谷くん」
「…はい」
拒否権はない。いつでもそうだ。俺は先輩に従うだけ。
立ち上がった先輩の細い体で余ったシャツがはためいていた。座ったままの俺を不思議に思ったのか、後ろを振り返って俺を見下ろす先輩の顔をぼんやりと眺めた。慣れないアングルにドキドキする。ああ、そうか。いつもより表情が固いから見慣れないのか。
「…久世谷くん?」
ほんの少し、震えた声だった。
「立たせて」
腰いたい、とかだるい、とか。百歩譲ってそれを先輩が言うには納得できる。にも関わらず、甘えるように両手を先輩に伸ばした。一瞬のち驚いたような顔をした先輩がすぐに笑って手を握る。若干汗ばんた暖かい手が、すぐに強い力で俺を引っ張りあげた。
駅への道はほんの10分ほどだ。なんてことない会話がぽつぽつと続く。
俺っていつもどうなふうに先輩と話してたっけ?
今まで普通に喋ってたいうのに、なんだろう。なんか変な感じがする。
「久世谷くん!ねぇ久世谷くん!…もぉー聞いてないでしょ。今日君、なんか変だよ?」
「いてっ」
心の中でうんうん唸っていれば、むっつりした先輩に腕をつねられた。
調子が変なのは俺よりも先輩だろうと思う。
しかし思えば、俺は俺の前での先輩しか知らない。まるで出会い系で知り合った同士の関係みたいな薄々としたものだ。
俺だって興味もない女が、自分を知って欲しいアピールをしてくることにはうんざりしていた。先輩は俺に自分のことを知ってもらいたいとは思っていないようなのだ。それだから、俺は先輩が気に入ったのかもしれないけど、先輩と話すことが日常になった今、それは変化しつつあった。
半分ストーカーのような先輩のサーチ能力はもはや反則技だが、俺のことをもっと知ってもらいたいとも思うし、先輩のことをもっと知りたいとも思う。
先輩は謎だ。今になっても素性の知れないところがたくさんある。止まっていれば絡みついてくるのに、追いかければ逃げられる。
もっと俺にも教えて欲しい。俺だって知りたいのに。
沸々と湧いてくる独占欲にも似た欲は、なんだか気持ちが悪かった。
「俺、今日は寄るとこあるから路線違うの」
改札を通り抜けると、いつもは同じホームへ向かうはずの先輩が反対ホームを指さした。
なんだ…と残念がるような心の声が微かに聞こえて、寂しいなんて子供か、と自分に呆れる。
「そっすか。じゃあ、また」
「うん」
片手を上げ、先輩と反対のホームに向かったときだ。先輩が思い出したようにあ、と声を上げた。
「久世谷くん」
振り返れば、先輩はいつもより力の抜けた顔でどこか呆けていた。
「最後……名前で呼んでくれて、ありがとう」
小さな声だった。それでも言っていることは明瞭に聞き取れる。それが意味することを理解したとき、急に顔に熱が集まるのを感じた。
そんなのいいのに。名前で呼んでほしかったらいくらでも呼んでやるのに。
言おうと思った言葉がうまく声にならない。「あ、」とか「う…」とか訳の分からない声を発しながら瞬きを繰り返していると、照れたようにはにかんだ先輩が手を振った。
「それだけ。じゃね」
俺が固まっていると、先輩は背を向けて階段を降りて行く。もうすぐ電車が来るらしいベルの音が聞こえて、慌てて俺も反対ホームを駆け下りた。
……なんだこれ。
運動音痴が慣れない駆け足をしたから?昼に食べた菓子パンが重すぎて血糖値でも上がったか?
バクバクとうるさい心臓を押さえつけながら、俺は混乱でぐるぐるとする頭で必死に考えた。気を抜けばにやけそうになるこの感じ。なんだろう、なんだこれ。体が…体のなかが熱いや。心臓がバクバクする。
「………うん。もっと優しくしよう」
きっと見慣れない先輩のはにかみ顔を見たからだ。エロいことなら平気な顔してするくせに、あんな初心な顔を見たからだ。俺は先輩のことを知らなすぎるし、先輩のことを考えなさすぎる。
もっと優しくして、もっと、もっと……
もっと、なんだ?その先は?
「……千紘先輩……」
呟けば、顔中真っ赤になるのが自分でもわかった。
これは病気かも知れない。
深刻に悩む自分と、得体の知れない高揚感に浮かれる俺は、向かいのホームの真正面に立つ先輩がひどく暗い目をしていることに最後まで気づかなかった。
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