5話 迷妄モラトリアム


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 先輩を見かけたのは、帰りがけのロッカーだ。

 靴箱から湿ったローファーを出しながら、3‐Eの靴箱をぼんやりと眺めていたとき、小柄な体が奥の廊下から出てくるのが見えた。なんだろう、このデジャブ。前と違うのは後ろ姿ではないところだろうか。

 先輩の姿を認識した瞬間、体に緊張が走る。どくどくと心拍数が上がっていくのを感じた。固まったまま、先輩を食い入るように見つめていれば、ふと先輩が顔を上げた。まるで最初から俺がいるのを知っていたかのように、まっすぐに目が合う。

 周囲のざわめきも、人の気配も、何も耳に入らないし目に映らなかった。先輩の姿だけが薄暗い廊下ではっきりと見えた。

 びっくりしたように目を見開いた先輩が足を止め、気まずそうにゆっくりと目を逸らす。その足が一歩、後へ後ずさった。
 
「先輩っ!」

 気づいた時には自分でもびっくりするくらいの大声が出て、周りにいた何人かが驚いたように俺を見ていた。肩をびくつかせた先輩が、背中を向ける。

 ヤバイ。逃げられたら俺じゃ追いつけない。

 いざ先輩を目にしてしまうと、ずっと思っていた不安だとか怖さが束の間どこかへ消えた。この期を逃すことのほうがよほど怖い。今を逃したら、なんだかもう一生先輩は俺に会ってくれないような気がした。
 
「待って!」

 先輩のスタートダッシュがかかるより前に駆け出す。まだ先輩はおっかなびっくりに背を向けただけだった。小柄な後ろ姿に手を伸ばす。つかめたのは薄い肩だった。
 
「先輩」
「な、なに…なに、なに…」

 俺の必死の形相に、先輩が顔を引きつらせて視線を逸らす。今すぐ頭を下げたい衝動にかられたが、ここで目立つのも申し訳ない。
 
「話があります」

 先輩の手を引き、一階の一番手前にある第一講義室へ入る。先輩はおとなしくついてはきているものの、怯えた様子が気配でわかった。

 放課後の講義室は無人だ。扉を最後まで閉めてしまえば、廊下の喧騒がひどく遠いものに感じる。電気もつけていない薄暗さのせいか、先輩の顔は少し青く見えた。

 二人だけの空間に、ただ雨音が落ちていく。緊張と少し走ったせいか、心臓がさらにバクバクとしている。

 先輩はただ突っ立っていた。その顔をちらりと確認すると、普段は読めないその表情にも少しだけ戸惑いが見え、胸がちくりと痛む。

 ようやく整ってきた呼吸で深呼吸をして、もう一度、今度はしっかりと先輩の目を見た。
 
「先輩……」

 しっかりと目が合った瞬間、俺は勢いよく頭を下げた。
 
「すいませんでしたっ!!」
「え…え?くせ、たにくん…?」
「本当にすみませんでした!謝ってどうこうなる話じゃないのは分かってるし、許してほしいわけじゃないんです!ただ俺、今まで先輩にひどいこといっぱいしてきちゃって、本当に後悔してて…負担になってるのも、無理してるのも、先輩なのに、俺調子乗って…お、男にされるのだって、そんな気持ちのいいことじゃないですよね…それどころか、普通に嫌ですよね。それなのに、俺何も気づけなくて、嫌な思いばっかさせちゃって…」

 けじめはつけなければ。先輩が好きだ。男でも女でも、正直、先輩が俺以外の誰かを好きになろうもんなら、そいつのこと消してやりたくなるくらいに先輩が好きだ。

 でも、先輩が俺といて辛い思いをするならそれは俺は嫌だ。

 嫌われたくない、あわよくば好かれていたい。そんな欲は当然ある。欲ばっか先にたつ。でも、嫌な思いはさせたくない。
 
「……ごめんなさい」

 声が震えた。頭は下げたままだから先輩の表情は分からない。なんだか泣きそうになってしまった。
 
「いや…ごめ、俺ちがくて」

 思いのほか戸惑った先輩の声が降ってくる。肩を叩かれて顔を上げると、毒気を抜かれたような顔で先輩が目を丸くしていた。
 
「あの…この間は、その…俺のほうこそ、ごめん」

 ポカンとした顔で先輩が言う。

 その表情に俺も毒気を抜かれてしまい、思わず肩の力が抜けた。そっと伏し目で床を追い、窓の外へ目を向けた先輩が大きな猫目でぱちぱちと瞬きを繰り返した。


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