2話 慣れても馴れるな


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「俺一生、生身の人間とセックスできないのかな」
「え、へこんでんの?」

 情けない声が漏れ、眠そうにあくびしていた先輩が驚いたようにこちらを振り返った。

 人の心なんて複雑すぎてよく分からない。それに比べて欲なんて単純なもの。

 イイか、悪いか。

 その二択だ。
 間違えようがないじゃないか。だからそれでいいじゃないか、と思ってしまう。好きだとか、そんな感情が加わればすぐに俺には分からなくなる。

 相手の望むものが何なのかなんて知らないし、それを与える義理も感じないし、そもそも求められることが面倒だ。

 眉をひそめて考え込む俺を見て、先輩が椅子を動かしてこっちを向いた。ぎしりと音が鳴り、先輩が下から覗きこむようにして俺を見上げた。
 
「ま、あることにはあるよ。難しく考えなくてもいい関係」

 少しだけ複雑そうな顔で先輩が口を開く。いつもよりいくぶんトーンが低いのは、俺の悩みをそれなりに真剣に考えてくれているからだろうか。
 
「俺はあんまいいとは思わないけど。恋愛感情が絡んでなければたぶんいいんだよな、久世谷くんの場合。相手も愛情だとかを求めないで、ただ快楽だけを求める関係だったらウィンウィンじゃん」
「…クズいな」
「久世谷くんが求めてるのはむしろそういう関係なんじゃないの?俺は好きじゃないけど、別にそれが悪いとは思わないよ」

 どうなんだろうか。救いを求めるように先輩を見つめると、先輩は肩をすくめて机に突っ伏した。
 
「でもなぁ…俺はどちらかと言えば、そっちに走っちゃうより純粋に人を好きになって欲しいなぁ」

 机に伏した先輩が、顔をこちらに向けて言った。猫のように大きな目は、今は西日に細められている。

 どうして他人のことをこんな風に心配できるのだろう。どうしていい方向へ向かってほしいと願えるのだろう。

 まどろむように目を細める先輩に気づけば頬が緩んでいた。
 
「優しいですね」
「まあね」

 くしゃりと先輩が笑う。

 そんな先輩に自然と手が伸びて行き、先輩の目は徐々に大きく見開かれていった。我に返ったのはその滑らかな肌に触れそうになった時だ。

 直前で止まった手に先輩が笑う。
 
「触らないの?ちょっとした練習よ。俺が女の子だと思ってやって」
「……」

 すこしだけ緊張した。

 でもこの人は何も俺のことが恋愛的に好きなわけじゃない。俺に好きになってほしいわけじゃない。そう思うと気分が落ち着く。

 触れた頬は想像した通り滑らかで柔らかい。なんだか縁側で日向ぼっこでもしているような気分になる。しばらく髪をすき、耳元をいじった。先輩は猫が撫でられた時のように、気持ちよさそうに目を細めていた。柔らかい髪は日焼けでか、ほんの少し傷んでいる。日にあたった髪は、染めているかのように綺麗な栗色に光っていた。

「そこでやめちゃ駄目でしょ」

 止まった手元に、くすりと先輩が笑う。思わず顔をしかめた。

 その先までやれというのか?いつも一方的にやってくる先輩に。

 はぁ、と溜息をつくと、俺は先輩に顔を近づけた。先輩が目を閉じる。そのまぶたよりも少し上、額に小さなリップ音を立てて唇を当てた。

 顔を離すと同時に目をゆっくりと開けた先輩はにこりとほほ笑んで言った。

「まぁ合格かな。次は口にしてね」
「あんたが顔上げてくれなきゃできないし」

 顔をしかめてそう言えば、藤崎先輩はすぐに顔を赤くする。

「いい、今日はこれでいい」

 そっぽをむいた先輩はそのまま起き上がると、机に広げた教科書や参考書を鞄に詰め始めた。

 いつもはケラケラ笑いながら、俺の隙を見計らって盛大にキスしてくるというのに。しかもがっつり舌まで絡めてくる。さも楽しそうに口を蹂躙してくる先輩の笑顔はまるで悪魔の笑顔だ。

 それなのになんだか今日はよそよそしい。

「じゃ、またね」

 そそくさと帰る準備をした先輩は、最後にディスクを抜き取り、呆気にとられる俺に部屋の鍵を投げてよこした。

「もう帰るんですか?」

 思わず引き留めれば、先輩はスマホを見ながら面倒くさそうにあくびをした。

「この後用事がある」
「予備校?」
「いやー?いろいろ」

 意味深にそう言うと、ひらりと手を振って去っていく。

 どこからともなく表れては、なんの前触れなくキスをしてくる。自分を女の子だと思って練習してみろと無理強いしてくる、俺の顔が大好きな先輩。

 その後ろ姿を眺めながら思った。

 俺と先輩の関係はいったい何なのだろう。


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